匂いと口-1
木曜日、私はバイトを終えると、急いで渡された住所に向かいました。グーグルに住所を入れると、場所は簡単に見つかりました。目黒の高台に建つ五階建てのマンションで、野宮さんの部屋はその最上階、所謂ペントハウスと言われる部分にありました。
全面ガラス張りの大きな自動ドアを抜けて、インターフォンに部屋番号を入れました。
「オーケー 上がってきて、五階で降りて突き当りの部屋」
部屋の前に立つ前に、野宮さんはドアを開けてくれました。
「入って。琴。今日も可愛いね」
彼の後に続いて、黒とも思える深い茶色の板張りの廊下を進みました。
右側にバス、トイレと思われるドアが並び、また一つドアがありました。ドアの無いキッチンを過ぎると突き当りの部屋に出ました。
正面が全面ガラス窓で、遅い午後の赤っぽい光が、白いカーテン越しに斜めに部屋に注いでいました。廊下の先に大きなモニターが乗った木製のデスクが一つ。左にはキッチンの空き窓に繋がるカウンターテーブル。その奥にダブルベッド。正面の壁にTVモニターが掛けられ、右側の窓は半分ほどまで、木製のキャビネットで塞がれていました。
そして部屋の真ん中のモニターに向かって、革製の三人掛けのソファーが置かれていて、脇には小さなガラスのサイドテーブルが置いてありました。
「あっ 取りあえずソファーに座って。飲み物、お水でいい?」
「はい。ありがとうございます」
彼は氷の入ったグラスの水を、私の座っている横のサイドテーブルに置いて、隣に座りました。
「素敵なお部屋ですね」
こんな部屋に住んでいる男が、深夜のコンビニで十年もバイトしている事が、俄かに信じられなくなりました。
「うん。本当はベッドは寝室に置くべきなんだけど、生活をこの部屋だけで済ませたくてここに入れたら、結局窓を半分塞ぐ事になっちゃったよ」
彼はそう言って、小さく笑いました。
私は窓際に並べられた床と同じ木材で出来ているように見えるキャビネットに目をやりました。そこには多数の書籍、DVD、CDとオーディオらしき物が置かれていました。そしてそのまま奥のダブルベッドを見ると、まるでシティホテルを思わせる真っ白なコットンブロードのシーツが綺麗にベッドメイクされていたのでした。
「よし、じゃあ話を聞こうか?」
彼が隣から話しかけて来たので、私は彼の方に向かって首を回して答えました。
「はい。」
「うん。しかし、 隣に座っていては話しずらいね。よし。」
彼はそう言って立ち上がると、デスクの前に置かれていた木製のしっかりした作りの椅子を重そうに持ってきて、私の2mほど前に置きました。その時「ゴトリ」と言う重厚な音が静まり返った部屋に響きました。
「そうだ。音楽でもかけて置いた方がいいかな?」
彼はキャビネットの方に向かい、いくつかのスウィッチを動かしました。
すると、低いチェロの音が静かに流れだし、朝靄のようにフローリングの上に立ち込めました。その弦の響きは、まるで歳を重ねた女性のうめき声の様に、私達を包み込みました。彼は小さく頷きながら戻って来て、私の前の椅子に腰を下ろしました。
「これは誰の曲ですか?」
「パブロ・カザルス。聞いたことない?」
「名前だけは聞いたことがあるような、ないような感じです。」
「ふふ、ま〜チェロの第一人者と言ってもいいかな? この枯れた音色がたまらなく好きなんだ」
「はい。素敵ですね」
そして、二人が音に耳を傾けた暫しの沈黙の後
「お金? お母さんに渡すためだったね?」
「はい。」
「お母さん、それで喜ぶかな?」
「いえ。とても母には言えませんが、私の気持ちがそうせずにはいられないんです。」
「うむ。もう今までにもしてるの?」
「援交ですか? まだしたことはありません。」
「処女では無いよね?」
「はい。」「あの、でも、一度しか経験が無くて」
「彼?」
「いえ。付き合ってはいません。でも、付き合って欲しいって言われていた人です」
「どうだった? 気持ち良さは感じたの? 痛みだけ?」
「はい。いえ。あの。痛みは少し。でも、気持ち良かったのだと思います」
知らないうちに話がセックスに向かっていて、私は少しドギマギしたのですが、その事を意識すると、益々恥ずかしさが増すのが分かっていたので、努めて淡々と答えようと思いました。
「うん。実は僕は戸惑っているんだ。正直に言うと、僕が「援交が出来ないだろうか?」と考えた原因は琴なんだ。度々琴に会っているうちに、こんな女子高生を一生に一度でいいから抱いてみたいと思うようになったんだ。そしてこんな事を言い出した僕は、絶対に琴に軽蔑される。でも、それでもいい。むしろ軽蔑されてしまった方が、気が楽になるかもしれない。現に僕は琴に知られなくても、心の中でそう思ってしまったんだから、そう言う男なんだから仕方がないってね。だから、琴から返事が来た時、心臓が止まりそうなほど驚いた。全てを無かった事にして貰おうと思ったぐらいだ。琴に対する下心はあったにせよ、本当に琴を抱く事なんて考えてもいなかった。琴が可愛くて仕方がないから、琴の代役を求めただけなんだ。だから。 」
彼は一気にそこまで話して、うつ向いたまま黙り込んでしまいました。
いつもとは違った弱弱し気な彼の仕草に、心の中に温かく柔らかな物が生まれました。
「あの。私、野宮さんだから、お願いしてみようと思ったんです。友達の援交の話を聞いた時に『私も出来るのかしら?』と思ったんですけど、考えるほどに、恐ろしさが増して、自分には無理だと諦めていたんです。でも、 野宮さんなら、と」
彼は顔を上げて、じっと私を見つめました。