あの男との出会い-3
その彼は「野宮さん」と言って、十年ぐらい深夜の勤務を続けているベテランさんで、店長より年上で年齢は六十代らしいと言う話は聞いていました。そしてこの夏休みが始まるまでは、私と野宮さんには、ほとんど接点が無かったのですが、夏休中、どうしても昼勤の人が足りない時に、彼がヘルプに入る事が多くなったのです。今日は入れ違いでしたが、数時間を二人で勤務することが、今日までに3回ありました。
彼は長身で、あか抜けていて、品格と言う物をどこかに感じさせる、父と重なる部分が数多くある男性でした。そして何故彼のようなタイプの男が、長年深夜のコンビニバイトを続けているのかについては、誰も詳しい経緯は知りませんでした。
初めて彼と勤務が重なった時。
「赤坂です。よろしくお願いします。」
「野宮です。よろしくね。噂には聞いていたけど、本当に綺麗な子だね〜! これは仕事が楽しいぞ! よし! ガンガン昼間のヘルプに入っちゃうぞ! はっはっは」
彼は優しい静かな口調で、そう言うと、声を出して笑いました。はにかみを含んだ笑顔は、どこか少年を思わせました。
「止めて下さい。私、美人なんかじゃありません。」
「嘘つきなさい。松坂さんは、自分が美人な事を十分に知っている筈だよ。学校でだって凄くモテている筈だ。美人だと言われて、返答に困るのは分かる。でも、それを否定しちゃうと、より人々に嫉妬心を植え付けちゃうから、そんな時は、さらりと笑顔で『ありがとうございます』って言って置けば良いんだよ」
確かにそうでした。人々に美人だと言われた時の反応には困っていました。
「あっ はい。 ありがとうございます」
「そう! 松坂さんは今時珍しい、素直な良い子だね。これは教育しがいがありそうだな〜 そうだ、下の名前は何て言うの?」
「はい。琴です」
「コト? こと。 どんな字を書くの?」
「楽器の琴です」
「琴? ほ〜 名前まで綺麗だ。いいね。 ねっ 琴って呼び捨てにしてもいい?」
「えっ? はい。大丈夫です」
「よし! 琴! レジ点取って!」
「あっ はい!」
その後も、お客様の途絶えた合間をぬって会話は続きました。
「琴はモテるでしょ? 彼氏はいるの?」
「いえ。いません。」
「え? だってかなりコクられてるでしょ?」
「ええ。それはそうなんですけど、なんか乗り気になれなくて」
「え〜? いい男がいないの?」
「そんな事は無いんですけど、なんかみんな子供っぽく見えちゃうんです」
「ふ〜ん そうなんだ。勿体ない」
私は何が勿体ないのか良く分かりませんでしたが、質問は止まりませんでした。
「琴、趣味は何かあるの?」
「はい! 読書が好きです!」
「ほ〜 僕も結構読むけど、どんなのが好きなの?」
「はい。いわゆる、純文学が好きです」
「えっ? それはそれはなかなかの本好きだね? 例えば誰が好き?」
「三島由紀夫さんとか川端康成さん、谷崎潤一郎さんが好きです」
「へ〜 僕も好きで、全作読んでるよ!? どの作品が好き?」
「え〜 全部好きなんですけど、三島さんだと『金閣寺』が一番好きで、何度も何度も読みました。川端さんも全部好きですけど、『雪国』とか『眠れる美女』が好きです。あと谷崎さんの『秘密』とか」
「う〜ん それは、同級生が子供っぽく見えちゃう筈だよ。あんな成熟した文章に惹かれてれば、彼らの会話がスカスカに聞こえるでしょ? それに琴はかなりエッチなんだね? 『眠れる美女』なんか選ぶあたり、ヤバイね。あの淫靡な世界に惹かれてるなんて、ヤバイよ。」
「え!? 違います! 止めて下さい」
そう言って、私は逃げるようにレジを離れて、前出しに向かいました。「あ〜 恥ずかしい。いきなり、私が文学の淫靡な世界に惹かれていることがバレてしまったわ。でも、世の中に文学少女は星の数ほど居るもの。恥じる事はないわ」
そんな感じで始まった野宮さんとの関係でした。下の名前を呼び捨てにされていたからでしょうか? 彼に父の面影を感じたからでしょうか? 私達は急速に親しくなり、お互いの身の上を語り合ったのは、二度目にシフトが重なった時でした。
「ふ〜ん 琴も色々結構大変なんだね。でも授かったその美貌と素直な心があれば、この先何でも手に入れられると思うよ。ま〜 自分の身につまされて、偉そうには何も言えなく成っちゃうんだけどね 」
私が現在の家庭環境を話し終えると、彼はそう言って、自分の事を話してくれました。十年ほど前に離婚されたそうで、その時はお二人の男女のお子様は、二人とも成人され独立されていたそうです。
「どうして離婚されたんですか?」
「厳しい事を聞くね? それは良いでしょ。まあ良くある話だよ。」
「いえ。教えて下さい。私聞きたいんです。私には聞く権利があると思うんです。奥様やお嬢様を愛していなかったんですか?」私は少し険しい剣幕で言ってしまったのです。
「愛していたよ。そのつもりだった。しかし 端的に言うと、自分の中の『男』が勝ってしまったんだと思う。実は、その時関係があった女性は、成人したばかりの女子大生だったんだ、僕とは三十以上の歳の差があった。いや。もういいでしょ? ごめん。理由なんて、僕だってちゃんと整理が出来て無くて、とても君に説明なんて出来ないよ」
私は返す言葉が見つけられずに、二人の間に息苦しい沈黙が流れました。
「わかりました。じゃあ、お仕事の事教えて下さい。何故、野宮さんのような方が、十年も深夜のコンビニでアルバイトをしてるんですか? 皆さん不思議に思ってますよ?」
野宮さんは、冷たい瞳でジッと私を見つめたあと、淡々と話してくれました。