暗転-1
ゆきの秘書課への異動辞令が発せられたのは、美魔女コンテストが終わり、まもなくのことである。
「ゆきすごいじゃん。おめでとう!」
「Wさんの下は大変だけどきっと将来のためになるよ!」
「頑張って!」
同僚たちが口々にゆきに声をかけてくれる。ゆきもそれに笑顔で答える。
A社において、秘書室は出世コースのひとつと認識されており、現役員や歴代社長も多くが秘書室勤務を経験している。ゆきについても、これまで積み上げてきた実績を考えれば周囲も本人も納得の悪くない、いや最高の人事と言えた。
夫も妻の栄転を喜んでくれた。
「よかったじゃないか。期待されてるんだな」
「うん」
「さんざんお世話になったWさんの下でまたやれるというのもなにかの縁だね」
*
実際、秘書としてWに仕える仕事は悪いものではなかった。
関係各所との調整やスムーズな業務遂行にはさまざまな気配り、心配りが要求されゆきの性分にあっていたし、出世コースだけあって社内外のいわゆる「上の人たち」と接する機会も多い。先方も秘書課の人間を出世ルートに乗った社員と認識し人脈づくりの一環として丁重に接してくるし、美魔女としての知名度も有利に働いた。それはやりやすくもあり、また若干のこそばゆさを伴うことでもあった。
もう一点、Wの秘書なら時間の融通がきく。従来の部署では美魔女活動との折り合いが難しくなるケースが増えてきたので、異動は好都合であった。
A社も半ば業務命令としてゆきを美魔女グランプリに出場させた以上その活動には全面的に協力してくれた。表向きはもちろん個人としての仕事ではあるが、「ワーキングマザーの理想的なロールモデル」としてゆきが持て囃されることで、A社にとっても抜群の広告効果をもたらしているのだ。季節外れの異動人事にはそのような背景があった。
芸能活動はしないと宣言していたゆきとしても、社への貢献になるのであれば表に出るのはやぶさかでなく、とくに多くの女性に勇気を与える美魔女の仕事にやりがいすら感じるようになっていた。
そんなわけで、各種メディアのインタビューや女性誌のモデルとしての仕事を精力的にこなしつつ、秘書業務にも追われる日々は、忙しいながらも充実していた。幸せな家庭、恵まれた職場、社会的な名声と影響力、収入、美貌すべてを手にした。
そんな中でも、以前と変わらず誰に対しても謙虚で朗らかな彼女は、同僚たちの羨望と尊敬をよりいっそう集めていく。
すべてが順調だった。
あの日までは。
*
「Oさん、ちょっといいかな」
Wの執務室でかけられたひとことから、ゆきの人生は暗転した。
「つかぬことを聞くが……これはOさんということで間違いないだろうか?」
Wに見せられたのは、Fと並んでラブホテルへ入る自分の後ろ姿を捉えた写真だった。
「週刊誌の記者から君の不倫現場を押さえたと連絡がきた」
言葉を失うゆきに、Wは他の写真も提示する。ホテルから出てきた写真では正面からゆきの顔が捉えられている。再度、本人確認を求められたゆきは、力なく「はい」と答えるしかなかった。
写真はその二枚だけである。ネタは小出しにするのが効果的であるとWは経験から知っていた。週刊誌というのも無論嘘。Wは目の前の女を最大限気遣う表情で語りかける。
「驚かせてしまってすまないね。なに、週刊誌など私がなんとかしてやるから心配しなくていい。ただ私には真実を偽りなく話してほしい。まず……お相手は、E通堂のFさんだね?」
「はい」
「君たちがホテルの中で何をしていたのかはわからない。しかしまあなんだ。こういう場所に入り、二時間後に肩を寄せあい出てきたということは、つまりそういう関係と見做されてしまうのはわかるね」
「はい」
「実際のところはどうなんだ?」
「……ご想像のとおりで……間違いありません」
ゆきの声は震えていた。認めるしかない明らかな証拠を突きつけられているのだ。
「Fさんはうちの重要取引先でOさんとは同じプロジェクトで動いてもらっていた。しかも美魔女グランプリでは事務局の要職にもついている」
「…………」
「そんな者同士が実は男女の関係にあったことが明るみになれば大問題だ」
「……申し訳ありません」
身を固くし言葉を絞り出すゆき。Wは内心ほくそ笑みながら、しかし思いやりに溢れた笑顔で言葉をつなぐ。
「もちろんお互い既婚とはいえ、大人の男女がどこで何をしようと個人の勝手だ。私だって人のことは言えない」
ゆきとのかつての不倫関係を仄めかし、不倫そのものを責めるつもりがないことを暗に伝える。ゆきを安心させ、多くを自白させるために。
「いつからなんだ?」
「昨年の、十一月くらいからだったと記憶しています」
「Fさんと知り合ってすぐじゃないか」
「実はFさんとは……結婚前にお付き合いをさせていただいていました。仕事で再会したのはまったくの偶然だったのですが……」
「そうだったのか。どうりで……。どのくらいの頻度で会っていた?」
「週に一度か二度……。一ヶ月くらい間が空くときもありましたが」
「ではもう何十回もホテルに行っているね?」
「はい……」
「いや、こんなことを聞いてすまないと思っている。しかし事実関係の確認だけは立場上きちんとしないといけない」
「はい。理解しております」
もちろんWは素人掲示板ですべて知っている話である。人妻に色っぽい話をさせて興奮するセクハラ趣味も彼にはない。にもかかわらず、本人の口から不倫の全貌をあらためて喋らせる理由はただひとつ。この会話をボイスレコーダーで聴いているであろう夫のOに聞かせるためである。ゆきの自白にひとつでも彼の知らない事実があったなら、Oにさらなる離婚材料を与えることになるだろう。