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アンソロジー(三つの物語)
【SM 官能小説】

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秘密 ……… 第一の物語-1


『 秘密 ……… 第一の物語 』
 

これほど暑い夏を私は経験したことがないような気がする。
燦々と照りつける太陽と、葉がぐったりとうなだれた街路樹、アスファルトからゆらゆらと立ち上る陽炎。夏の光は私の心とからだをさらに渇かせ、疼かせ、掻きまわそうとしている。
原因はわかっている。五十二歳になった私がアキオさんをどうしようもなく欲しくなったということだ。それは私がいつのまにか歳をとり、そういう欲望を心と肉体の飢えのように感じる年齢になったせいなのかと、ふと心の中で苦笑する。
三十五歳になったアキオさんは背が高く、まるでこれから成熟した果実に向かうような体をしていた。そしてその肉体のどの部分も深みを増し、濃くなっていく夏の太陽の光を生気として吸い込んだように輝いていた。
彼の肉体の仄かな翳りを含んだ蒼味のある美しい仕草に、私は熟成したワインを口にしたときのように酔いはじめていた。そこには若すぎる男の肉体の青臭さも脆さもなく、肌も筋肉も充実した逞(たくま)しさに充ち溢れていた。
夫のいる私がアキオさんとベッドをともにすることが罪だとは思わなかった。なぜならアキオさんは、私が失った意味のない自らの肉体をふたたび意味あるものに甦らせてくれたのだから。

――― 私はアキオさんと秘密を持つことによって、いつのまにか彼を《自分のもの》として自慰的に描こうとしているのかもしれない……そう思うようになっていた。


 ホテルの部屋のカーテンは開け放してある。高層階の窓から光の粒を散りばめた夜景が拡がっている。ガラス窓の夜景は鏡となってベッド上の私たちの姿を闇と重ねている。
部屋はまどろむような蜜色の柔らかな光に包まれ、それは私の年齢の体にふさわしい明るさだった。この歳の女が見せることができるものと隠さざるえないものが灯りによって選別される。それは肉体だけでなく、顔も心もそうされる。

「ご主人ってどんな方なのですか……」
ベッドの中で私を抱き寄せたアキオさんが不意に尋ねた。彼のしなやかな身体となめらかな肌が心地よく私の体に馴染んでいる。
「主人は病気なの……それに今は思い出したくないわ」
「ぼくといっしょにいるからですね」と、彼は形の整った、すきのない顔に小さな笑みを浮かべた。
「おそらくあなたを好きになり始めたからかしら」と言って私は笑った。
「ぼくも、雪乃先生と初めて会ったときから好きだった……」
 彼の言葉が薄い唇から洩れたとき、私は胸の奥に湿った、密やかな、従順な、懐かしい響きを確かに感じとっていた。
細身ながらがっしりと引き締まった彼の体から、夏草のような少年の匂いがした。それはおそらく私の遠い記憶の香りだったかもしれない。愛おしい厚い胸肌が私の目の前に青々とした草原のように広がっていた。

アキオさんとは半年前、街で偶然、再会した。夫が倒れて半年がたったときだった。
彼に声をかけられたとき、彼が誰なのか、私はすぐに、あたかもあたりまえのように遠い記憶を呼び戻していた。
彼は十八年前、私が臨時の音楽教師をしていた高校の生徒だった。短い期間だったため、私はあの頃の生徒の顔をそれぞれ憶えているわけではなかった。でも、彼の顔だけは記憶の底に刻まれている。
当時、彼はテニス部だったが、どちらかという目立たない生徒だった。彼は雨の日(おそらくそのときは外でテニスができないときだったのか)の放課後、音楽室のピアノの鍵盤に指を滑らせ、バッハのインベンションのどの番号も完璧に弾きこなしていた。まるで透明な湖の水面にかざした指が、繊細な、優雅な、精緻な、そして狂いのない波紋を描くように。
私は彼に気づかれないようにそっと彼の背後に立った。窓の外で微かに聞こえる雨音のあいだを縫うように濡れた光彩を纏った彼のピアノの音が不思議に私の胸の鼓動を愛撫した。
彼は私に気がついたのか不意に鍵盤の上の指が止り、彼は私の方を振り向き、にっこりと笑みを浮かべた。




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