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アンソロジー(三つの物語)
【SM 官能小説】

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秘密 ……… 第一の物語-4

いつのまに夏は通りすぎてしまったのだろうか。
白い雲の破片を散りばめた、いわし雲の空から吹いてくる微かな風がレースのカーテンを揺らし、私の頬をなでていく。
病室のベッドに横たわった夫はいつものように眼を閉じたままだった。夫が倒れ、この病院に運ばれてから七か月近くが過ぎようとしている。意識はあるのに言葉も表情も失っていた。
 静かな午後の病室は、あまりに清潔にきれいに保たれ、私たち夫婦にとってはどんな記憶も消し去っているようだった。
五階にある病室は緑豊かな病院の庭園に面し、その向こう側には中学校のグランドが見える。ナースステーションからは一番離れて奥にある個室の病室は、私と夫を病院の慌ただしい時間の流れから切り取ったように静けさに充ちていた。
ふと思った。たとえ夫がけっして眼を覚まさない病床に臥していようと、夫に対して秘密をもつことは、いつのまにか私にとって心地よい危険さに感じられた。
 
夫とは叔父の紹介で知り合った。つき合う期間も短いまま結婚した。叔父の会計事務所で働いていた夫はそのときすでに五十歳で、私は三十七歳だった。歳の差は気にしなかった。お互い初婚だった。子供にはめぐまれなかったが、判で押したような真面目な夫の生活は、結婚生活十数年のあいだ何も変わらなかった。 
夫は定年退職後、非常勤で会計事務所の仕事に携わっていた。休日は近くの公園を散歩し、ときに短い旅行をする以外は、ときどき事務所に行くか、あるいは書斎にこもり、本を読むことが唯一の趣味だった。
 考えれば、夫に男を感じなくなったのがいつ頃からだったのだろうかとふと思う。ただ夫婦というレッテルを貼られた、曇りのない、あまりに互いが見えすぎる生活だけが私に重くのしかかっていた。最後に夫にからだを求められたのが、いつだったのか私は思い出せなかった。私は肉体の寂しさをいつのまにか忘れ、歳を取り、肉体から若さが削ぎ落され、肉奥に虚ろな皺を刻んでいることに気がつかなかった。

私がベッドの脇の椅子に腰かけ窓の外を見ていると、ノックして入ってきた看護婦が、お湯を入れた白い洗面器とタオルを病室の隅のテーブルに置くと、お願いしますね、と言って忙しそうに部屋を出て行く。
夫の身体をタオルで拭いてあげること……それは私の義務なのだろうか。夫の病室着を胸元から開く。微かに肋骨が浮き出た無機質で貧相な肉体だった。それは私にどんな欲望もいだかせることはなかった。
夫の腹部を濡れたタオルで拭き、下半身を露わにさせる。縮み込んだペニスが死骸のように萎(しな)びている。私にとっては、何の意味も持たない、説明のできない夫の性器だった。私の中で嫌なものがじめじめと這い始めるのを感じたとき、私は夫のペニスに目を背けるようにふたたび病室着で覆った。
夫の指をベッドの中に探した。血の気のない乾いた指は痩せ細り、関節が浮き上がっていた。それは私の欲望とあまりにかけ離れているものだった。その指が夫のものなのだと思ったとき、私は夫を微塵も愛していない自分に気がつく。そしてぞっとするような自分の冷ややかな淫蕩に、なぜか微かな甘美さを感じたことが不思議だった。


 ホテルの外は雨が降っていた。雨音は絡み合ったふたりの体のあいだに染み入るように聞こえてきた。
「お願いだから、雪乃先生って呼ぶの、やめてくれないかしら」
「じゃ、ユキノさんって呼んでもいいですか。とても素敵な名前だと思います」と言って、アキオさんが私の胸に触れたとき、私は肌の内側をくすぐられるような甘い恥ずかしさを感じた。
「もう、五十歳になったおばさんだわ」
「でもぼくたち、ほんとうの恋人みたいです」
彼は指で私の耳にかかった髪を梳くように優しく掻きあげた。そのなめらかな指は彼の肉体の奥底まで拡がっているような体温を感じさせた。
アキオさんは私を抱くときも礼儀正しかった。年上の、それもひとまわり以上も年齢が離れた私という歳上の女を抱く時の彼の慎み深さが、私には愛おしく感じられた。


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