妻を他人に (7) ただいま-1
カチャリ――。
寝室のドアが開く音がして、ベッドから身体を起こす。
「ただいま……」
ゆきが立っていた。
廊下の明かりを背にしており表情はよくわからない。
ただシャンプーの甘い香りがふわりと漂ってきて鼻腔をくすぐる。
「おかえり」
「Zくん、帰ったんだ……」
「うん。ゆきがシャワーを浴びている間に……」
三十八歳を迎え若い頃より一回りボリュームを増した胸と尻の膨らみが、ゆったりしたグレーのパジャマの布地に丸みがかった起伏を作り出している。
髪をアップにまとめた妻は一見するといつもどおり。しかし寝室の入口で立ちすくんだまま中に入ってこようとしない。
無理もないことだと思う。
ゆきは今日、他でもない夫に頼み込まれ、初対面の男とセックスをさせられたのだ。夫から他人へと貸し出され、その男に唇を奪われ股を開いた。つい二十分ほど前まで、この美しい妻の下半身の中には、初めて会う男のペニスがたしかに挿入されていたのだ。
それだけではない。
ゆきはその行為で、あろうことか夫には聞かせたことのない喘ぎ声を上げてしまった。夫とは一度も到達したことのない羞恥の頂に他の男と一緒に上り詰め、淫らな姿を晒してしまった。
夫である私を前にして、後ろめたさと罪悪感に襲われていても不思議ではない。
三メートルの距離から私の顔色を伺い、不安気に立ちすくむゆき。
私は妻へ歩み寄ると、その手を掴み抱き寄せる。幾度も抱いたはずの彼女の身体は、おどろくほど華奢ではかなく感じられた。現在のこの清楚な佇まいのゆきと、いまだ耳にこびりつくふしだらな喘ぎ声のギャップに私は混乱した。夫婦それぞれに戸惑いどうしてよいかわからぬまま抱き合う私たち。身体は密着しているのに、心の距離はどこか遠い。
「…………」
抱きしめる腕に力を込めても、妻は身を固くしたまま動かない。
過酷な時間を過ごしたゆきにとって、自身も性的な快楽を得られたことは、せめてもの慰めとなっているのだろうか。それとも人妻として、より重大な恥辱と受け止めているのか。
夫婦間に生じたほころびを取り繕うように私はなかば無理やり、彼女の小さな口に自分の唇を重ねた。
「……ん……だめ……」
顔をそむけ、キスを拒まれてしまう。
追いかける。なおも逃げるゆき。
私たちはベッドに倒れ込んだ。
「だめだよ……パパ……」
「ゆき、なんで……」
「だって……」
ベッドで向かい合うゆきの目に、みるみる涙が溢れていく。
「だって……。だって私……他の人と……パパじゃない人と……」
涙が妻の白い頬を伝い落ち、シーツを濡らした。妻を他の男に差し出したのは三十分に満たない。しかしそれは、人妻としての尊厳を破壊し、夫と妻の間に亀裂を生じさせるには十分な時間だった。
*
ゆきとZの行為は、私が寝室に入ったのを合図に、いよいよ本格的に始まった。
ベッドに腰掛けた私の耳に、妻の声が容赦なく届く。
「ん…………ん………!………っん……!」
股間への愛撫を受けていたゆきは今、口を固く閉じ手で声を必死に抑えているのだろう。
くぐもった吐息はしかし次第に熱を帯びていく。
「ん……っ……ん! ん、ん…………っ……!」
わずか一、二分の間に、私の知らない声を発しはじめたゆき。
耳を澄まさなければ聞こえない程度の、遠くの音ではある。しかしだからこそ、これがアダルトビデオでも妄想でもなく、扉の向こうで実際に行われている男女の行為であるという現実を突きつけられる。
「ん…………っんふ……ん……! ん……っん……ん、ん……ぁ!」
ピチャピチャ、クチュクチュと湿った水音も聞こえてきた。
初めて耳にするその音は妻の喘ぎ声と混ざり合い、間断なく続く。
ピチャピチャピチャ、クチュクチュクチュ――。
「っあぁ……! ん……っく……! ん、ん…………んぁ…………っぁんふ……!」
ゆきが、このような声を出す女だということを初めて知った。
ドクドクと脈打つ下半身とは対象的に、顔は冷や汗で青ざめ、心は薄ら寒い。この歳になるまで、いわゆる「喘ぎ声」などポルノの中だけのファンタジーだと思っていたのだ。セクシー女優以外では唯一、かつて聞いた麗美の喘ぎ声。あのときもショックを受けたが、ガラス窓越しということもありこれほどではなかった。
女はみなこういう声を出すのだろうか。職場で涼しげな顔で仕事をしている同僚の美人OLも、いつも可愛い笑顔で挨拶してくれる隣の若妻も、私の知らないところでみなこんな官能的な声を出してセックスしているのだろうか。
ピチャピチャピチャピチャピチャ、クチュクチュクチュクチュクチュ――。
「……んぷ……っ! ん、ん…………っ! んぁ…………! んふっ…………! ん…………! んぁ…………! んふん…………! んあ…………っ! んぐ…………! んぐ…………!」
ふしだらな声を夫に聞かれまいと懸命に我慢すればするほど、漏れ出る愉悦の声はなおいっそう背徳の響きを帯びていく。
自らの意に反し悶えてしまう人妻の身体。女の性に抗おうとするゆきの姿を思うと胸が張り裂けそうになる。
グチョグチョグチョグチョグチョ、シュポシュポシュポシュポ――。
「……んぁあ……! ん……っ! んふぅ……! んふっ……! んふぅ……! んふっ……! ゃん……だ……め……! ぁああ!」
愛する妻の股間が、汚らしい音を奏でている。
貞淑であり続けようとゆきがあがいているのも事実なら、股間から淫らな音を出しているのもまた事実。ふたつの矛盾した事実はやがて、ひとつの結末を迎える。