第一章 宣告文-1
雨がアスファルトの路面を、容赦なく叩きつけている。
無数の雨粒のダンスを見つめながら、男はため息をついた。
男はある大手設計事務所に勤務する、建築デザイナーである。
ただし、ここで一つ忠告させていただく事がある。
もしも、あなたがTVドラマやCMに出てくる建築家に憧れているのなら・・・。
そして恐ろしいことに、あわよくばそうなりたいと夢見ている学生さんであったのなら。
私は昔の映画にありがちな、肩をすくめるポーズをとりながら言うだろう。
「バカな考えは捨てなさい」・・・と。
そして運悪く、あなたが建築デザイナーになってしまい、又・・さらに神様に見放されて。
『有能な建築デザイナー』になってしまったとしたら・・・。
ああ、私は悲しみの花束を、君の人間としての魂が眠る棺に投げ入れる事を想像しなければならない。
男はこれから現在、設計中のテナントビルのオーナーと打ち合わせを行ないに向かう途中、急に雨に降られ、雨宿りにデパートのエントランスの溜まり口に、ようやくたどり着いたところであった。
男はTVなどでよく見かける、長い筒の図面ホルーダーは持っていなかった。
(何故か世間では、これがカッコイイと思われているらしい・・・)
その代わりに、大きめの薄いカバンと白いポリスチレンボードを、ケーキの箱のように組み立てた物をかかえていた。
カバンの中には、これから打ち合わせに使うA3サイズの図面と、箱の中にはビルをデザインされた模型が入っていた。
本来なら、一週間前のオーナーとの打ち合わせで平面プランとデザインが決定しており、土曜日の今日は、一カ月ぶりのデートにハシャグ彼女の腕の温もりに、少しはにかみながら楽しんでいるはずだった。
通りから見えるケーキ屋の看板に、彼女の好きなイチゴタルトを見つけた男は、昨日机の上に残されていたA4サイズの、彼女の手厳しい文章の宣告文を思い出していた。
【指示された修正箇所は、全て直しておきました。
この後、あなたは一カ月ぶりの私達の週末の予定を、これまで何度となく使われた『キャンセル』という便利な言葉で遠い過去の物にして、明日のオーナーとの楽しい打ち合わせに間に合うよう終電近く迄、模型をつくり、説明文に使う、私にもメッタに言わない修飾文をひねりながら、貴方の可愛いパソコンと語り合うんでしょうね】
ワープロの文字が、男の心を揺さぶる。
男は彼女の強烈なサーブに対して心の中で言い訳を打ち返そうとしたが、その気持ちを遮るようにして、シャットアウトのボレーボールが叩きつけられるように続いていた。
【いいんです。
そりゃあ、私は一カ月ぶりのデートよりも、あなたの健康の方が心配・・・・。
私が帰った後も、あなたは留守電に入れたメッセージの返事をくれる時間もないくらい、遅くまで仕事と格闘しているんですもの。
私はこれまで随分と、聞き分けの良い「子猫ちゃん」でいたつもりだわ。
(あなたの表現を借りれば・・・ね)
でも、今は安っぽい日本映画の戦争中でもないし、あなたは命をおとしに旅立っていく悲劇の飛行士でもないわ。
つまるところ、待ちくたびれたの・・・。
だから、これが最後の宣告文。
明日の土曜日、オーナーとの打ち合わせが終わった午後、あなたはもう忘れてしまったかもしれない、今夜行くはずだったレストランで私とランチを食べること。
(おお、神様・・・。
たったこれだけの望みでも、私を罪深い女とお呼びですか?)
そのランチは2時迄よ。
あなたが来るまで私は空腹をかかえて、何杯目かのコーヒーをおかわりしてジッと待っているわ。
でも、2時を少しでも過ぎたらダメ・・・。
私の腕時計の秒針が1秒でも過ぎたら私は店を出て、一人どこかで失恋のみじめな乾杯をしているでしょう。
(携帯電話の御使用は御遠慮ください。
あなたのとぉっ〜てもステキな言い訳は、聞きたくありませんから・・・)
そうならない事と、あなたの健康を祈って先に帰ります。
ガンバッテ下さい。
(本当に、心配しているんだから・・・!)】
回りくどい文章がもしも武器として使えるのなら、彼女はきっと「ゴルゴ13」顔負けの優秀なスパイナーになれる事だろう。
疲れきっている男の思考を爆発寸前にまでKOしておいて、僅かに最後の3行でしぶとく命綱を垂らしてくれた彼女に感謝しつつも、男は残り少ない気力を振り絞って、パソコン画面に向かっていった。