睡蓮-1
睡蓮の花が咲いた。
七月の日差しがきつい日のことで、僕は綿のタオルを頭に巻いて出かけた。そうしなければ、初夏の陽光が脳を茹らせてしまうのだと、韮原がもっともらしく云ったからだ。
当の韮原は、幅の広いつばを持った麦わら帽子を被っていた。まったく似合ってはいない。けれど酷く上機嫌で、僕の隣りをついてくる。
あまりに機嫌がよ過ぎて、鼻歌まで歌う始末。
僕にはふんふんと出鱈目なメロディーを踏んでいるようにしか聞こえないけれど、韮原は一曲歌い終えるたびに、なにやら曲名らしきものを呟いた。音程を辿ることに関して上手でない韮原は、しかし僕よりも音楽には詳しい。どれも僕の知らない歌だった。
時折、韮原は歌いながら僕に近づいてきた。あまりに寄り添い過ぎて、僕と韮原の肌がくっついてしまうこともあった。そのたびに僕は丁寧に剥がしたけれど、それでも互いに相手の肌に残したものを感じずにはいられなかった。
韮原はよく僕の皮膚の上に、薄い水色のほろ苦く、悲しいものを残した。韮原によれば、僕は深い赤色のとても甘く、ちりちりと温かいものを残すらしい。
しかし見つめていると偶に寂しくなるのだと、僕の蟀谷に軽いキスを落としながら云った。そんな時、同じ長椅子に座っていれば肩を寄せ、歩いていれば手を繋いで、僕は小さく頷いて微笑む。人が見ていなければ、接吻だってする。
今は人通りの多い往来なので、慎んでそっと掌を取る。細くて固くて乾いている韮原の指は、慎み深く僕の指に絡みつく。
それから韮原は僕の脇腹に埋まるように、ぴったりとくっついた。
韮原の膨らみが僕の凹みにはまり、また僕の膨らみが韮原の窪みにはまった。隙間が満たされた格好のまま、ふたりで満たされた心持ちになった。
静謐な匂いに誘われるように、右手前の曲がり角で人々が折れてゆく。睡蓮の薫りがし始めた。
巡礼のような、寡黙に粛々と前進する波に、僕と韮原も静かにした。
アスファルトが溶けて、透明な青い水が足許まで押し寄せてきた。
周りの恋人たちが、いよいよひとつになる。邪魔なものがないように、間違いがないように、見つめ合って、小さく息を吐く。
それは、ほうという一対の甘やかな音になり、黄色がかった睡蓮に注いだ。それらが触れるほどに、睡蓮の花は震えた。
震えて、さらに香を放つ。
恋人たちは睡蓮が枯れるまで、永遠にそれを繰り返す。
僕たちは傍に立ち、深く匂いを吸い込んだ。
「韮原」
僕の声は、低く掠れた。
韮原は答えない。
一際大きな吐息に、はなびらが大きく震えるのを僕たちは見ていた。