変わらぬ筈の夫婦関係-2
その日の夜。岩之助は、やけにリアルな夢を見た。
自分がどこかのホテルの一室で部下の里夢とセックスしていると、突然小夏がドアを開けて部屋に入って来る夢だ。
入って来た小夏は驚愕した表情を浮かべていたが、瞬きする間もなく納得したように頷くと、ベッドの上で繋がっている自分と里夢に冷めた視線を向けるとそのまま出て行く。
岩之助は止めようと動こうとしたが、結合部分で繋がっている里夢が離れてくれず、為す術もなく見送ってしまう。
自分が酷いと思っているにも関わらずに、腰を突いて動かす自分の体の動きは止まらず、その一部分たる男性器は繋がっている女へと種付けしようと膨張させる。
そして、夢の終わりには里夢へ自身の精液を吐き出すと、平静さを取り戻した脳内が妻が出て行った事実を認識して、暗闇の奈落の底に堕ちていくような錯覚を覚える――。
そんな、リアルな夢だった。
「待て小夏ーーっ!?」
岩之助は、妻の名を大声で呼んでベッドから起き上がる。
場所はホテルではなく、自分の書斎であった。そして着ているのは寝間着の紺色のパジャマ。
「はぁ‥‥はぁ‥‥はぁ‥‥」
荒い呼吸を繰り返す岩之助は額に手を当てる。手にはべっとりと嫌な汗がまとわり付く。
「なんて夢だ‥‥」
岩之助は見た夢の内容に、思わず吐き気を催すぐらいに気分が悪くなる。気分の悪い状態から落ち着きを取り戻すまでそのままの体勢で止まる。数分ほど、その場に留まって深呼吸を繰り返す。脈が正常に戻ると、漸く岩之助は布団をどかしてベッドから起き上がって床に降りた。
焦燥感を胸中で抱きながら、岩之助は書斎を後にした。
書斎を出た岩之助は、部屋の前で脱いだスリッパを履いてLDKのフローリングの床を歩く。
キッチンのスペースにはガスコンロの前で鍋をおたまでかき混ぜて朝ご飯を作っている小夏の姿があった。
「あら。おはようございます、あなた」
小夏は夫の存在に気づいて朝の挨拶をする。彼女は昨日の格好とは違って薄い桃色の半袖のシャツに無地の紺色のエプロンを纏っている。キッチンカウンター越しなので、下に何を履いているかは岩之助からは見えない。
「こ、小夏‥‥」
「はい?」
小夏は不思議そうな顔でこちらを見ている。一先ず妻の変わらぬ姿を見て、内心ホッとする岩之助であった。
「いや、何でもない‥‥」
「あ、そういえば‥‥さっき何か呼んだような気がしたんですけど、私の気のせいですか?」
「あ、あぁ。そうだ‥‥何でもないんだ、本当に‥‥」
岩之助は小夏に誤魔化しながら、起きたての喉の乾きに不快感を覚える。
「すまないが水を飲ませてくれるか。喉が、乾いてしまってな‥‥」
岩之助は小夏に水を頼んだ。
「あ、はい」
小夏は流し場にあるコップ置き場から透明なコップを取り、水道のレバーを引いて適当な量の水を汲んで、キッチンのカウンターに置いた。
「どうぞ」
「あぁ‥‥ん?」
岩之助は小夏からカウンター越しにコップを受け取る際に、コップ置き場に置いてある一つのマグカップが視界に入る。
「どうかしました?」
「お前のマグカップはどうしたんだ?ほら、ピンク色のハートマークが描かれた‥‥」
流し場近くのコップ置き場に小夏の見慣れたマグカップではなく、青い色のマグカップになっていることに気づいた岩之助はそれを指摘する。
「あぁ、前の奴は捨てちゃったんです。コーヒー飲んで色素沈着してだいぶ汚れていたので。まぁ、汚れは落とそうと思えば落とせるんですけど、折角の機会だから買い替えてもいいかなって」
笑みを浮かべながら小夏は前までのカップが無い理由を告げた。
「そうか」
岩之助は納得すると、コップ置き場にあるマグカップを眺める。
青い色のマグカップはカトゥーン調の絵柄のメスのイヌのキャラクターが描かれていて、英語で『I Love You』そんな一文が書いてある。
昨日のことを思い返せば、買い物してきたという話だ。恐らくはその時に買ったのだろう。自分への言葉だろうか、と思うと岩之助は年甲斐もなく嬉しくなる。
と、同時に別のことを思う。ここまで想われているのに自分は何もしなくて良いのだろうか?と。
岩之助はここ数年、妻に対して文字通り何もしていない事実に気づく。部下との関係が明るみになることが、妻と向き合う時間さえ億劫にさせて何もしてこなかった。
思えば、妻はコーヒーが好きだ。買ってきたら多少は喜んでくれるかも知れない。
「‥‥今度、買ってくるよ」
岩之助の無意識からの呟きに、小夏は「え?」と反応する。
「コーヒー好きなんだろ?私はたまにしか飲まないが、お前はよく飲むからな」
「‥‥あら、ありがとうございます。買うならインスタントで構いませんよ」
「あぁ、覚えておく」
岩之助は水を飲んだマグカップをダイニングテーブルの上に置くと、顔を洗う為に小夏に背を向けて洗面所へと向かう。
まだほんのりある眠気は勿論だが、一緒に夢によって湧き出た不安な思いも一緒に拭い去ろうとしたかった。
今からでも遅くはない。まだどうにかなるだろう。
岩之助は、根拠が無い一筋の希望を信じていた。そうすることで、自分の見た夢が現実に起きないことを完全に否定したかった。
なにせ夢など、所詮は叶わないもの筈なのだから。