黒縁のハート-1
算数から数学に変わって数か月…僕には数学のくせに、アルファベッドがあることを、今だ理解出来ません。
特技のペン回しも、数学の時間は快調です。
「あ…」
カランと乾いた音を経ててシャーペンが床に落ちました。そういえば、鉛筆もシャーペンに変わりました。
先生からギロッと睨まれ、僕は肩身の狭い思いをしながら、落ちたシャーペンを探します。
隣の席の椅子の脚のすぐ脇に、僕のシャーペンは申し訳なさそうに落ちていました。
ぐぐっと手を伸ばします。まだ、僕の身長は157センチ。もう３センチ高かったら、シャーペンに届いたでしょうに…。
腰を曲げ、思いっきり、千切れるんじゃないかと思うくらい、手を伸ばしました。あと３センチ…２センチ…１センチ…。
すっと僕のシャーペンに一本の手が伸びて来ました。
「…はい」
手の持ち主は、隣の席の長谷川さんです。簡単にシャーペンを拾うと、僕に手渡してくれました。
「ありがとう」
周りに聞こえないよう、小さい声でお礼を言うと、長谷川さんはにこっと笑い
「言ってくれれば拾うからね」
と言ってから、また黒板に目をやり、カリカリとノートに公式を写し始めました。
僕は声を出さずこくんと頷くと、今手渡されたばかりのシャーペンを見つめます。端から見れば、今、一生懸命問題を解いているように見えるでしょう。
僕はノートの右上の隅にハートを描きました。初めてハートという形を書いたので、左右が対称ではなく妙に歪です。女の子はどうしてあんなに綺麗なハートが描けるのか、とても不思議でなりません。
僕はそれを修正するために、何度もハートの縁をシャーペンでなぞりました。
何度も…何度も…。
縁は濃く太くなっているものの、確実に形は綺麗になっています。
ガタガタとクラスメートたちが席を立ち上がる音で、僕はハッとしました。慌てて立ち上がり、僕もみんなに合わせて終礼をします。
いつのまにか数学の授業は終わっていました。チャイムの音すら聞こえませんでした。
僕は、改めてハートを見ます。真っ白いノートの片隅に、装飾品のように描かれているハート。小さいながらもはっきりと、黒縁のハートは広いノート上で自己主張しています。初めてにしては、中々上出来です。数学はノート提出があるのですが、僕はこのハートを消しはしないでしょう。
ぱたんとノートを閉じ、机の中にしまいます。すると、肩をポンと叩かれ
「次、体育だぜ」
と声を掛けられました。
「おう」
短く返事をすると、僕はロッカーから体育着を取出し、友達と体育館へ向かいます。
僕達の前を歩いている女の子の中に長谷川さんを見つけた瞬間、僕はさっきのハートのことを思い出しました。
この恥ずかしくて、騒ぎだしたくて、幸福な気持ちはなんなのでしょうか。
あぁ…。
どうやら僕に、好きな人が出来たようです。
[fin.]