きすのあと-1
空が明るい。こんな当たり前の事が、私たちにとってはとても新鮮だ。
「昼間に二人でいるのって、久し振りじゃない?」
「初めてだよ」
「…そっか、初めてか…」
可愛い。それより、愛しい。彼を見ているとそんな感情が込み上げてくる。どうしようもない程に愛しくて、たまらない。いつからだろうか、こんなに彼を思うようになったのは。
「ちょっと」
後ろから肩を叩き私を呼ぶ声。
「明日、お休み」
彼は口をあんぐりと開けたままの私をじっと見つめ返している。
「なぁ、分かった?」
「えっ。あ、明日休みなんですか」
「そう。振替で。俺の都合も合わないから」
「はあ、そう…ええぇ…はい」
意味の分からない返答をしつつ、体内では赤い熱が一気に生成され、燃焼していった。熱が引いた後にはちょっとした解放感と物寂しさが残る。
――明日休みか…
私の一週間は、彼の授業のためだけにあるというのに。何たる仕打ち。
『わぁぁぁぁぁ』
心の中で叫んでから落ち着くまで待っていると、青い微熱が少しずつ引くにつれて肩の感触がふわりと蘇ってきた。
今でも思い出すと赤い微熱に襲われる。もう二ヶ月が経とうというのにである。あの時は既に、惹かれていたのだろう。
――先生は、どうだったのかな。
聞きたくても、聞けない。無意識の内に思い止まってしまう事が、付き合い始めてからは増えた気がする。友達と恋人の違いや大人と学生の距離感というものがそうさせているのだろうか。近づけば近づくほど遠ざかるような、でも確実に近付いている歩幅。
そういえば…明日は一ヶ月の記念日だ。しまった、何も準備をしていない。私は溜息をつきたいのを必死に堪えて、代わりに自分を少し罵った。
「ばかぁ…」
「はっ!?俺何かした?」
独り言ではなくなってしまった言葉は、その矛先を間違えたらしい。焦っている姿を横目に一人楽しそうにほくそ笑んでいる私は、さぞかし根性の曲がった女に見えた事だろう。
「なにも」
「…最近の日本語は難しくなったんだなあ」
私の大好きなスカイブルーがやわらかな表情へと変わっていく。もう少し夏のままで、もう少しこのままでいれたら。そんな淡い希望を打ち砕こうとするかのように、入道雲がむくむくと育っている。もうすぐ夕立がくる。
「お腹空いてない?」
「私は大丈夫だけど、先生は?」
「俺は…ちょっと減った」
「近くで休む?雨降りそうだし」
水蒸気をたっぷり含んだ入道雲は、すっかり雨雲と化して今にも大きな水たまりへと落っ込ちそうだった。
「雨は降って海に還るんだね」
「え…ああ、そうだな」
世界中の一粒の水が集まって、こんなに大きな水たまりが出来るのだ。人間の七割は水だと云うのだから、この体には世界中の一滴が流れてるのだろうか。
そんな事を考えながら、海を眺めている私を見て彼がくすっと笑った事など、私は一生気付かない。
私たちは車で10分程のレストランで早めの晩御飯を食べた。
「美味しかったあ〜!」
「俺も。良かった」
満足気な彼を横目に、私の心は近づいてくるイルミネーションへと早くも心変わりしていた。