役得と焼きそばと-5
「え……日本語、すごく上手ですね」
「母が日本人なの。台北育ちですけど、小学校までは日本人学校だった。金城武とかインリンとか、知ってる?」
「知ってます」
「二人とも日本人学校の先輩で、近所のマンションに住んでた。あんまり会ったことはないけど」
そう言って怡君さんはまたにこやかに笑った。その笑顔が入り口の方を向いた。あの厚いドアを開けて、さおりさんが入ってくる。
「さおりさんおかえりー。お兄さん来てるよ」
「あ、いらっしゃいお兄ちゃん。怡君ちゃんかわいいでしょ」
そう言ってさおりさんと怡君さんが笑いさざめく。ちょっと、ドギマギする。確かに怡君さん、かわいい。今日イベントに来た小学5年生の、人懐っこい組の4番目にかわいい方の子が、もっとかわいくなって大人になった感じだ。小柄なさおりさんよりも頭半分背が高く、髪は肩の下までのセミロング。お互いの呼び方からするとさおりさんのほうが年上っぽいけれども、チャイナドレスと比較的普段着っぽいさおりさんとの違いを差し引いても、怡君さんのほうがお姉さんっぽく見える。
「今日はしのちゃんは?」
カウンターの中でトートバッグの中身を広げるさおりさんに怡君さんが言う。俺のちょうど正面あたりに小さなキッチンがあり、そこに買ってきた野菜類を置いたさおりさんが首を横に振りながら答えた。
「来れないの。学校の課外活動があって」
そして、怡君さんと反対側に顔を向けるように振り向いて、俺を見て小さく舌を出して笑う。ああ、たぶんしのちゃんがまたヤキモチを ―たぶん怡君さんあたりに―妬くかも、という配慮なんだろう。てか、今のテヘペロっぽく舌を出したさおりさん、めちゃかわいいんですけれども。
木製のドアが開いて中年男性が二人入ってきた。常連客のようで、怡君さんがちょっぴりくだけた口調で応対する。さおりさんはモヤシとニラを手にして俺を振り向く。
「夕ご飯、焼きそばでいい?」
「はい、お願いします」
「怡君ちゃん直伝なの、本格的だよ。オイスターソースと台湾の醤油が決め手」
やがて店内にごま油の香りが漂いはじめる。いい匂いだね。常連客のうちの一人が怡君さんにそう言うと、怡君さんとさおりさんが静かに微笑む。なんか、いい雰囲気だなこの店。
「はい、できました。召し上がれ」
さおりさんが、焼きそばが盛られた大きめの丸皿と割り箸を俺の前に置いた。ソース焼きそばよりも色の濃い細麺をすする。なんだこれ、うますぎるぞ。
「怡君ちゃんこれなんていうんだっけ」
「豉油皇炒麺。香港の焼きそばなんだ、おいしいでしょ」
口いっぱいに焼きそばを頬張りながら俺は何度もうなずいた。初めて食べたなこんなうまい焼きそば。大学の卒業旅行、沖縄に行く友達チームと香港に行く友達チームで分かれて、沖縄チームに実家が太くてなんでも奢ってくれるやつがいた、というだけの浅ましい理由で沖縄へ行った22歳の俺よ、あんとき香港に行ってればもっと早くこの焼きそばに巡り会えていたのに。まあ沖縄そばもうまかったからいいんだけど。
常連さんは商店街の花屋さんと小さなスーパーの店主さん同士で、だいたいいつも日曜日に一緒に飲みにくるらしい。いつもボトルを開け、軽くなにか食べて、怡君さんとカラオケで一曲か二曲歌って ―「男と女のはしご酒」とかいう歌は聞きおぼえがあった― さっと帰る、というローテーションで、今日も俺が焼きそばを食べてハイボールを二杯飲んでいる間に楽しそうに笑いながら帰っていった。
カウンターをダスターで拭きながら怡君さんがおどけたように言った。
「今日もヒマかなあ。日曜日ってどうしてもお客さん少ないから」
「ニッパチも明けてもう九月も終わりそうなのにね」
カウンターの中のさおりさんが、有線のチューナーを操作しながら続ける。常連客のために昭和歌謡を流していたチャンネルがJ-POPチャンネルに切り替わる。ヒゲダンに合わせてさおりさんが小さく口ずさむ。
ダスターを流し台に置いた怡君さんが、カウンターから出てきて俺の隣のスツールに腰掛ける。チャイナドレスのスリットから覗く太腿を見て見ぬふりをして正面を向くと、さおりさんがカウンターにワイングラスを二つ置いた。
「たぶんもうお客さん来ないし、三人で飲んじゃおっか」
そう言ってさおりさんは木製のドアに鍵をかけ、表の看板を照らす灯りのスイッチを切った。そしてカウンターの中に戻り、冷蔵庫の横から三脚椅子を引っ張ってきてそれに腰掛けた。
「お兄ちゃんとしののことね、怡君ちゃんとオーナーには話しているんだ」