『洋蘭に魅せられたM犬の俺』-4
(3)
ひどく衰弱していたのか、杖をついて砂利道の坂を上っていく老婆の後を追うのも大変だった。息が切れて胸が苦しい。
ひどかった豪雨はほんの一時だけだったらしい。
雨はすっかりあがって、小高い丘の所々に濃い靄がかかっていた。
樹々の隙間から丘の中腹に豪壮な城館のような白い建造物が見えていたが、あれが麗様と呼ばれている女性の屋敷なのだろう。
早く麗様にお目にかかりたいという焦燥感に駆られるものの、坂道がやけにきつかった。 もう三十分は歩いてきたはずだが、一向に近づいている感じがなかった。
「まだまだですか」
随分先を歩いている老婆の曲がった背中に声をかけてみたが、黙殺された。
(もう少しゆっくり歩いてくれればいいのに……)
雨に濡れた砂利道なのに、俺は裸足だった。足の裏が切れて、血が滲んでいる。
食堂で丸裸に剥かれた俺は布切れ一枚で出来た古代の貫頭衣のような黒衣を与えられ、それだけを身に纏うことが許されていた。
まるで修行僧のような格好だ。
「着物や装飾品で身を飾るのを当たり前と思ってるのが間違いだよ。だから、自分を偽ることも平気になってるのさ」
頭に色とりどりの羽根飾りを付け、毛皮のコートを羽織った老婆は自身のことを差し置いて、したり顏で諭してきた。
黒衣の下に下着も穿かず、股間をブラブラさせている気分はいいものではない。どこか落ち着かない。
「お願いだから……ちょっと休ませてくれませんか」
俺は息を切らしながら哀れな声を張りあげた。
「チッ。若いモンがだらしない。モタモタしてるんじゃないよ」
十メートルも遅れてしまった俺を振り返って、老婆が舌打ちした。
「それじゃ、偉そうに二本足なんかで歩いてないで、ためしに四つ足で歩いてご覧よ」
とんでもないことを老婆が言い放った。
「えっ、どういうことです」
俺は驚いて老婆の厚化粧の真っ白い顔の表情を窺がった。
犬のように四つ足で歩けなどと、よく言えるもんだ。
さすがの俺も少し腹が立った。
「麗様に早く会いたきゃ、言ったとおりにするんだね」
老婆は冗談を言っているような表情ではなかった。
「オレが四つん這いになれば……早く会えると言うんですか」
俺の頭の中には一カ月前に出会った麗様の優雅な美貌がチラついていた。とにかく早くお目にかかりたくて、たまらない。
愛しくてならない恋人を慕うように、ひどく恋焦がれていた。
今やまるで女神のような神々しい存在と化している。
「わ、わかりました」
俺は意を決して砂利道に手をつき、四つん這いになって老婆を見上げた。
するとどうだろう。老婆の背後の白い靄が晴れていき、そこに黒い鉄柵が現れた。屋敷の広大な敷地を囲っている頑丈な鉄柵らしい。
四つ足で歩き出すと、なぜか老婆にすぐに追いついた。
「ほほほ。ほらね、元気になったじゃないか……もうすぐお屋敷の門が見えるよ」
老婆の言葉に俺は駆け出したいような気分で坂道を這い上った。
鋼鉄製の重々しい門扉が視界に入った。
やっと麗様に会えそうだ。
俺は犬のように駆け出していた。
すると門の横の守衛室からタコ入道のような丸坊主の大男が姿を現わした。ローマ時代の剣闘士を彷彿とさせる、太い革ベルトを腰に巻いて革のパンツだけを穿いた大男だ。
「貴様、どこの犬だ?」
大男の怒鳴り声が頭上高くで鳴り響いた。
頼りにしている老婆を見上げると、黙って嗤っているだけだった。返答するのを促すように、俺の後頭部を撫でつけてくる。
「あ……ああっ。わたしは、犬じゃありません。麗様にお目にかかりたくて来た者です。確認して下さい。わたしは一カ月前に麗様にお会いしたことがあるんです」
俺が立ち上がろうとすると、老婆が首根っこを押さえつけた。
「貴様のような卑しい顏をした奴を、この屋敷の中に入れる訳にはいかん」
大男は屋敷を守る門番として極めて忠実な男なのだろう。犬のように地面に這っている俺のことを怪しんで当然だ。
身なりもひどいものだ。貫頭衣のような黒衣を纏っていたものの、四つん這いの尻が剥き出しになっている。
背後から見れば、股間がそっくり露出していることだろう。
「貴様のような奴を、ご主人様がご存知だとはとても思えんな」
「わたしは絵描きです。麗様がわたしの個展にいらしたのです。その時に、いつでも会いにいらっしゃいと……」
俺は必死になって大男に事情を説明した。
「絵描きかい……そんな奴は入れてやれんな。ご主人様がお招きになる方のリストに、卑しい絵描きなど入っておらん」
門番は俺の額を乱暴につついて、とっとと引き返せと言わんばかりだ。
「ほほ。この男はどう見たって、あんた、人間のクズじゃないの」
老婆が横から助け舟を出してくれた。
「ん?……そうか、クズなのか。クズならクズだとはっきり言ってくれなきゃな」
大男が背後にまわって、俺の尻の谷間を覗き込んだ。
「オマエも自分でちゃんと言わなきゃ、駄目じゃないの」
老婆が俺の耳元で囁いた。
「ううっ……そんなことを言わないと、いけませんか」
食堂で言わされたような台詞をまた繰り返さないと、門の中に入れてもらえそうになかった。
「麗様からいつでも会いに来いと言われています。わたしに……ゴミ屑のような男だと教えて下さるという約束なんです」
熱病にうなされたような狂おしい想いが胸いっぱいに募っていた。麗様に会いたい一心でそう大男の門番に告げた。
「なんだ、そう言うことか……道理で貧相な奴だ。貴様がお屋敷の中では一度も立ち上がらないと約束するなら、門を通してやろう」
入門許可の印なのか、門番は大きな手でバチーンと俺の尻を叩いて、真っ赤な手形を残してくれた。