虚無-1
雨期独特の涼感が肌を撫でる。
一匹の黒い子猫が麗しい瞳を僕へ向けている。
僕は、初めて赤子を抱く時の父親のように、戸惑いながらも優しく子猫を抱き上げる。
体温と毛の感触が生物としての心地を感じさせる。
子猫は気力すら残っていない。無抵抗にただ一点の焦点を見つめている。
箱の中での景観はこの子猫にはどう観えたのかは知る由もないが、必然的に迫りくる死という解放は、電車内を虚しく転がる空き缶のように軽い事ように感じる。
ふと─箱の中に置き去さられた物が子猫だけではない事に気づいた。日記だ。分厚いハードカバーの日記。
僕は一瞬街灯を見つめた後に辺りを見渡し、日記を鞄に投げ入れ、子猫を抱いたまま家と続く底無しの暗闇へと走った。
玄関のドアにつけられた鈴の音が鳴る。僕は黙って自室へむかう。
子猫をタオルに包み、畳へと降ろす。かすかな泣声をもらす。その姿は、ホームに座り永久に来ることのない電車を待つ子供のように、不安でどこか淋しげだ。
寝る前まで日記の存在を忘れていた。
何枚かページをめくると元の所有者が書いたらしい文が恭しいほど丁寧に書き込まれていた。最後に書かれたのは六月三日。今日この日記を拾う二日前だ。
日記本文「透き通るような雨粒が窓の外枠をせわしなく走っています。
世界に愁う人々の命もこの雨粒のように流れては消え、流れては消えを、繰り返していますね……。私の命も明日には消えてなくなるのかも……。でも大丈夫。死ぬ事はとても気持ちの良い事だから。おやすみなさい」
次の日には雨は止んでいた。結局恋人は待ち合わせの喫茶店に現れなかった──そしてその日をさかいに連絡もつかなくなった。
世界は不思議に満ちている。それでも時の歯車は回り続ける。
子猫も日記の主も己に与えられた歯車を必死に回そうとしている。
もちろん僕も。
完