And I Love Her-3
「『お兄ちゃん』って、しのがそう呼び始めたんですか?」
「あ、はい、そうです」
噛みかけのナポリタンをぐっ、と飲み込んだ。返事の頭に「あ、」が付くのはコミュ症の証拠、とかなんとかネットで見たことがあって直したいんだけど、やっぱり出ちゃうな。
「いちばん最初、歩道橋で声をかけたときから、お兄ちゃん、でした。『お兄ちゃんもつばきファクトリー好きなの?』って」
俺がそう言うのをアイスティーを飲みながら聞いていたさおりさんは、軽く肩をすくめるようにして笑った。笑顔は、やっぱりしのちゃんに似ている。いや逆だ、しのちゃんがさおりさんに似ているんだ。
「離婚した頃ね、しのが『お兄ちゃんかお姉ちゃんがいたらよかったのに』って言ったことがあって。前の小学校での友達にきょうだいがいる子が多かったのね。うらやましかったんだと思う」
そう言って、ペーパーナプキンで口元を軽く拭いたさおりさんが、柔らかな表情で俺を見る。
「『お兄ちゃん』か……いいな、しのは。『お兄ちゃん』と『こいびと』がいて」
ドアベルがからん、と鳴る。振り向いて立ち上がったさおりさんは、入ってきた二人連れの男性客に、いらっしゃいませ、と声をかけ、俺に
「もし時間があるなら、ゆっくりしていってね」
と言ってカウンターの中へ戻った。さおりさんの口調が親しげで優しくなった嬉しさと、カウンターへ歩くさおりさんのちょっとタイトなレギンスのヒップと太腿に目が行ってしまった自分へのかすかな自己嫌悪とが入り混じって奇妙な気持ちになった俺は、その気持ちを落ち着かせるために二杯目のよく冷えたアイスコーヒーを一気に飲み干した。店内に再びビートルズが流れ始める。「And I Love Her」だった。
しのが今から出ます、よろしくね。スマホがひゃん、と鳴り、ロック画面にSNSの通知プレビューが表示される。さおりさんからのメッセージだ。
このあいだ喫茶店でさおりさんと会話した帰り際、俺は夕方の混み合い始めた店内で、自分も次の仕事先へ移動する準備を始めていたさおりさんに、しのちゃんと会うときには必ず事前にさおりさんに伝えます、と提案した。
「ふふ、信じます、って言ったのに……そうね、親としても安心できるかな。じゃ、これで」
さおりさんがスマホに表示させたQRコードを読み込む。SNSのプロフィール画像は、今よりももっと幼い笑顔で写るしのちゃんの写真だった。
「かわいいでしょ、小学校あがる直前くらいなの。写真撮られるの好きな子で」
次の仕事先へ向かうさおりさんからそんな話を聞きながら、駅までの道を途中まで一緒に歩いた。さおりさんは経営者が同じな喫茶店とバーを掛け持ちしていた。バーでは基本的に料理やお酒を作る担当だけど、多少は酔客の相手もするらしい。しのちゃんが前に言っていたおちんちんのお客の話、そのバーでの出来事だったんだろう。俺がネットで見つけたなかなかに際どい店は、よく似た名前の別の業態の店だった。考えてみりゃ駅が違うよな。
メッセージ画面を開いて返信を打つ。さおりさんからのメッセージの横に表示されたしのちゃんの笑顔。この笑顔、俺のいちばん大好きな笑顔に、もうすぐ会える。
冷蔵庫の中にQooが入っていることと、部屋の中の見える場所がちゃんと整頓されていることを確かめた。なんだかそわそわする。ヒゲの剃り残しはないかな、エアコン効きすぎてないかな。
さおりさんのメッセージが届いてから約十分。その十分すらじれったく感じ始めたとき、チャイムがピンポン、と鳴った。ピンポン、ピンポン、ピンポン。わかったよしのちゃん、今すぐ開けるよ。ダッシュで玄関へ行き、ドアスコープなんか覗かずにドアを開ける。同時に、小学2年生の女の子のちっちゃな身体が俺めがけて飛び込んでくる。しのちゃんが持っていたトートバッグが玄関の床にばさっ、と落ちる。思わず数歩後退りしながら、両手でしのちゃんの身体を受け止め、ぎゅっ、と抱きしめる。
「お兄ちゃぁん……」