聡美(八.)-1
離婚後、聡美は一旦は実家に帰ってしばらくそこに滞在していたのだが、そのうち両親との折り合いも悪くなり、なとなしに居づらくもなったため、結局実家からも離れることになった。
その後、縁故のない土地を転々とした。
このとき、前田のことを考えなかったわけではない。
しかし、前田とは別れてずいぶん時間が経っている。もう別の女性と結婚して家庭を築いているかもしれないし、片や聡美はもう五十歳を超えている。いまさら過去の情愛をほじくり返そうという気にはならなかった。
そもそも、聡美は前田のことを愛していたのかどうかすらわからない。
前田と聡美は――少なくとも聡美自身は、前田に対して身体以外のつながりなどないと思っていた。前田は若さと本能のおもむくまま聡美の身体を求め、聡美も応じるように愛欲を貪っただけである。
前田との行為のあいだ、二人はほとんど会話を交わした覚えがない。『好き』だとか、『愛してる』だのといった言葉は、二人が身体を重ね合わせているあいだは邪魔でしかなく、前田は思う存分聡美の身体に欲望だけを吐き出すと、次に会う予定だけを立てて颯爽と去ってゆく。
はたしてそんなものが「愛」だといえるだろうか。いや、はじめからお互いの感情に「愛」なんてものは存在していなかったからこそ、二人は身体のみでつながっていられたのかもしれない。
愛欲におぼれた身体は心を麻痺させ、ふわふわと浮いたままどこか違うところを彷徨っていた。浮遊した心は快楽におぼれてゆく自分をただ遠くから傍観していることしかできなかった。
そして愛欲の日々を失い、聡美にとって唯一の慰めであった智司も自分のもとから離れてしまった今、聡美の心のなかにはもうなにも残されてはいなかった――。
聡美は地元から遠く離れた漁港のある小さな町で暮らしはじめた。
地元の人たちと市役所の職員の厚意もあり、聡美は空き家になった一軒家をゆずってもらい、そこでつつましく生活を送っていた。
智司とは年に数回電話で会話をした。あるとき、その電話で智司から史明が再婚したことを聞かされた。
いまさら特別な感情など湧いてはこなかったが、少しだけ胸が痛んだような気がした。
週に何度か漁港のほうで仕事の手伝いをすることがある。そこで一人の漁師と仲良くなった。
その漁師の男は聡美と年齢が近く、獲れた魚を持ってよく家を訪れた。当然、身体の関係を求められたこともあったが、聡美はそれを頑なに拒んだ。聡美の身体はもうすっかり潤いを失っており、欲情する心も涸れ果てていたためである。しばらくすると、漁師の男は聡美のもとを去っていった。
それから長い年月を一人で過ごし、あるとき、智司のほうから電話がかかってきた。
その電話で、智司は近いうち交際している女性と結婚するということを知らせてきた。そして挙式の折には、ぜひ聡美にも出席してほしいと言った。
聡美はすぐには返事ができず、出席の有無は後日電話で知らせることにした。
あの智司が結婚――あまり実感はなかったが、うれしいことには違いなかった。
もちろん、式には出席したい。しかし、挙式には史明と明日香も来るだろう。いまさら家族の一員として、おめおめと参列することもためらわれた。
だが聡美はこうも考える――この機会を逃すと、もう二度と智司や史明、明日香にも会うことがないかもしれない。とくに、智司は聡美がいちばん愛しく思っていた息子である。だったら結婚式に参列し、その晴れ姿を見送ることが、母親としての最後のつとめなのではないか――と。
後日、聡美は電話で式に出席する旨を伝えた。