聡美(七.)-2
よく晴れた日曜日の午前中、聡美が二階のベランダで洗濯物を干していると、玄関の呼び鈴が鳴り、出てみると見慣れない男が二人立っていた。
一人は見るからに堅物そうな背広姿の中年男で、もう一人はカジュアルな服装の若い男だった。二人はそれぞれ名刺を聡美に渡し、中年の男は自ら弁護士と名乗った。
この二人が来た理由はすぐにわかった。だから聡美もつとめて冷静に対応することができた。
リビングのテーブル席を挟んで史明と聡美がならんで座り、向かい合わせに来客二人と明日香が座る形になった。智司は少し離れたところで心配そうに事の成り行きを見守っていた。
不倫調査の依頼人が明日香だと聞いたとき、さすがの聡美も驚きを隠せなかった。てっきり夫が依頼人だと思っていたからである。明日香にそんな費用が支払えると思っていなかったし、近頃の反抗的な態度も、気むずかしい年頃の反抗ぐらいにしか考えていなかったのだ。そう思っていたのは夫の史明も同じだったらしい。
やがて話し合いがはじまり、史明の言いつけで智司は二階の自室に戻ると、探偵の男はかばんの中から聡美の不貞行為の証拠となる写真と、その行動の詳細を綴ったファイルを取り出し、テーブルの上にならべた。
それを見ても聡美は動じなかった。史明の表情にも大きな動揺はなく、だまったまま若い男の話を聞いている。ただ、明日香だけは眉間にシワをよせ、怒りをにじませた目つきで聡美をにらみつけていた。
続いてもうひとつの証拠となる前田との行為をとらえた動画を史明が目にしたとき、聡美は羞恥心のあまりうつむいたまま顔を上げることができなかった。
そして話し合いが今後のことに移っていったとき、明日香は両親に離婚してほしいという主張を一方的にまくしたてたのにもかかわらず、史明はそれを頑なに拒んだ。聡美も、夫の決断が信じられなかった。
明日香は聡美のことを『ビッチ』『アバズレ』『便所女』等々、散々罵倒したあげく、ついには怒りのあまり部屋を出て行ってしまった。そして残った大人たちで話し合いは続けられることになった。
弁護士の男は、前田に慰謝料を要求するかどうかの判断を史明に委ねた。だが史明は、これも不問に付すことにした。要求したところで、学生なら支払う余裕などないだろうし、将来のことにもいろいろと影響があるだろうと言ったのである。
それから娘が負担した費用も、全額自分が支払うと申し出た。今回の一件に責任を感じた史明の、娘に対するせめてもの罪滅ぼしだったのかもしれない。
結局この一件は史明の恩情により大事に発展することはなかった。夫婦の関係はこのまま継続し、聡美への咎めもいっさいなかった。ただ、前田とはもう二度と会わないとの約束だけを交わし、誓約書も書かされたが、どのみち聡美はもう前田と会うつもりはなかったので何の異論もなかった。
聡美は複雑な心境だった。本来なら斟酌もなく離婚を切り出されてもおかしくないと思っていたのだ。史明のやさしさは聡美にとっては残酷であった。――おまえはずっと俺のそばで、罪と恥を背負ったまま惨めに生きろと言われているような気がした。これなら激しく罵られ、離婚を宣告された方がどれだけ気が休まったかしれない。
ただその一方で、まだ子どもたちのそばにいられると思えばうれしかった。明日香はもう聡美のことを母とは認めてはくれないだろうが、智司にはまだもう少しだけ時間と猶予がある。せめて智司にだけでも罪滅ぼしをしたい、たとえワガママだと思われようとも、せめて智司が成人して一人前になるまでは近くにいてその成長を見守ってあげたかった。だから史明がその気持ちを汲んでくれたときは、素直に感謝の気持ちしか浮かんでこなかったのだ。
それから家族は再び見かけだけ元の形に戻り、いつもと変わらぬ日常が過ぎ去っていった。
明日香は結局両親とは一言も口をきくことなく、高校の卒業と同時に家を出た。
聡美も書店のパートを辞め、家に引きこもる時間が多くなっていた。たまに元同僚の佐々木さんから電話がかかってきて話し相手になってくれるのが数少ない気晴らしではあったが、それも時と共に疎遠になっていった。
あとに残った慰めは智司の成長だけだった。身長もずいぶんと伸び、あっというまに聡美を追い越し、史明と変わらないぐらいの背丈になった。勉学のほうも優秀で、地元の有名な進学校を受験し、そのあいだ聡美は精いっぱい息子のサポートをした。無事受験も合格し、高校に上がってからも智司の成績は上々だった。そしていよいよ大学受験に挑むことになり、智司の成績ならばもっと上の大学を狙えたはずなのに、息子はあえて地元の大学を選んで進学した。智司はその理由を教えてはくれなかったが、なんとなく息子に気を使わせてしまっているような気がして、聡美の胸中は複雑だった。
大学の四年間もあっというまに過ぎ去り、とくに問題も起こすこともなく卒業をすると、他県の有名商社に入社し、一人暮らしをはじめるため、智司もついに家を出ることになった。
子どもたちがいなくなり、以前と比べガランと広くなった家の中で、聡美は自分の心の中にもぽっかりと大きな穴があいたような心地になった。
そして翌年、離婚の話を切り出したのは聡美のほうからだった。
史明は無表情のまま、「いいのか?」と言っただけだった。
聡美は神妙な顔つきで「はい」とだけ言うと、あとはもうお互いに会話を交わす必要はなかった。