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夜宴
【SM 官能小説】

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夜宴-1

長い夏も終ろうとしていた。
Y…医師が営んできた精神科クリニックはすでに閉じられ、三時間後にはニューヨークの大学病院に単身赴任するため空港に向かう。他界した友人のあとを引き継いだクリニックだったが、わずか五年で閉めることになったことに、死んだ友人に対して申し訳ないという気持ちもどこかにあった。
ふと携帯電話に目をやると見送りに行くと言っていた妻から成田に到着したというメールが届いていた。
彼は荷物が運び出され、診察用の机と椅子、処置室のベッドのみが残されたがらんとした部屋に佇み、窓からぼんやりと見なれた街の風景に目をやる。昼とも夜ともつかない黎明の光は季節の終わりを告げるように霞んでいた。

この場所には時間に侵されることのない風景と記憶が残っているような気がした。彼はニューヨークにたつ前に何かを確かめたかったが、それが具体的に何であるのかわからなかった。昨夜、自分がどこにいて、そこで何をしたのか覚えていない。そして気がつかないうちにこの部屋に来て、処置室のベッドの上で眠り込んでいた。
昨夜の《時間と場所の記憶》だけがすっぽり抜け落ちていた。何かが起こったことは違いないのに、それが何なのか脳裏に浮かんでくるものは茫洋としたままだった。不可思議な空洞が彼の体の中にあった。圧倒的な不在の感覚だけが、彼の性的なものの残骸をくすぐり続けている。その感覚は手を伸ばしても触れることができず、《すべての記憶の風景》から彼を遠ざける。ただ、誰かの像だけを引き寄せる。その人物が誰なのかはわかっている。

染谷静代………彼はその女性の記憶を脳裏の奥でたどり、彼女のカルテを記憶の中からたぐり寄せる。
彼女は、このクリニックで何度か彼の診察を受けていた患者だった。すでに八十歳近くの資産家の未亡人で、柔らかくウェーブのかかった艶やかな白髪を短めにカットし、整った目元と凛とした鼻筋、頬の輪郭は上品な顔立ちを感じさせたが、顔の皺を埋めた濃い化粧と薄い唇にひいた鮮やかな口紅が彼女の顔に特異な印象を与えていた。
夫人の顔は何かを暗示するように彼を惹きつけたが、それ以上に毒液のようなものがまぶされた黒々しい瞳は、どこか怨念に充たされたように感じられ、それが医者と患者の関係以上に、彼を不可解に魅了したことは間違いなかった。
夫人はどちらかというと小柄で、いつも着衣している胸元が大きく開いた刺繍入りのブラウスは若向けだったが、胸の起伏は浮き上がった鎖骨から流れて垂れたような老いた乳房の輪郭を思わせた。身につけていたふわりとした濃い臙脂(えんじ)のスカートの丈は短く、ストッキングで包まれたすらりとした脚は太腿をのぞかせ、老いた女性が身につけるにはかなり不釣合いな印象を与えたが、ここに来る患者の中にはそういう違和感のある服装をした女性も多いことから彼は特別に驚くことはなかった。

 夫人の問診においては、彼が尋ねたことに対して夫人が答えるというより、彼女の方から一方的に話しをすることが多かった。高齢の女性にしては抑揚のあるはっきりとした声だったが、夫人は明らかに認知症を患っていることがわかった。さらに高齢者特有の認識障害をまだらに見せる言動は、ときに微かな興奮状態を思わせたが、精神科医である彼にさえ、けっして嘘の妄想とは思わせないほど淡々とした声は、あたかも彼女がほんとうの事実を語っているようにさえ聞こえてきた。
 ただ、彼女が口にするところの夜宴という言葉が、いったい何を意味しているのかわからなかったが、それが彼女の生きた時間であり、情欲であり、そして彼女の正気と狂気を示す記憶の暗示そのものだと彼は感じるようになっていた………。



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