地上の朝顔-3
大事にしてやれよ。偏見だの、支配欲だの、そんなもの教えずに―――人を救う人間になるように。
健吾は、そうなった。良かった―――と思う。
敏之は幸せになったようだ。ささやかな祈りは通じたらしい。
「そういえば、妹さんは」
「ああ。ユリは主婦をしてますよ。ユリの家の近所のケーキ屋さんが美味しいんで、よく買って来てくれます。野菜を使ったケーキなんて評判らしいですよ」
「もう年寄りだ。よう食わんよ」
苦笑して、酒井は茶を飲む。甘いものは好きだが、クリームは最近苦手だ。
「美味しいですけどね」
そう云って健吾も茶を飲んだ。
「なあ、健吾君。俺は間違ってるか?」
「何がですか?」
酒井は自分の手を見つめた。皺が増えて、細くなった。あの子のような辛い目に遭わずに、老いた。
「俺は仕方がなかったと諦めて来たよ。そうだろう?諦めなきゃならない事なんざ、世の中に腐る程あるじゃないか」
「酒井さん。弁護士である私が云うのもおかしいかも知れませんが―――世の中に正しい事なんてありません」
健吾は真っ直ぐ酒井を見つめる。
「正しいとか間違ってるとか、私には解らない。酒井さん、人って好きか嫌いかなんだと思うんです。その意見が好きか、嫌いか。正論は正しくても人を追い詰めます。嘘は悪くても、人を救えます」
「そうか」
「酒井さんが自分を責める事はありません。警察は必要なんです」
自分は、自分を責めていたのか―――酒井は解らない。警察の嘘を飲み込んで来た。矛盾を受け入れて来た。
自分も、敏之のように生きたかったのだろうか。
「必要か。そうだな、必要だ。その為に俺は、あの子から目を逸らしたよ」
「車の目撃者が通報しましたね」
「ああ」
「事件性が低いと判断したのは―――酒井さん、貴方だった」
がたがたと、あの日の敏之のように酒井は震えた。
「ナンバーも解らなかった。時間も経ってた。そうするしかなかったんだ」
「事件を他にも抱えていたからですね」
そうだ、と酒井は云う。
「あの子を見捨てたのは俺だ」
書類に、酒井義昭の名前はなかった。
通報を受けた当人の名前だけ書いてあった。
それでも。
敏之は解っていた筈なのだ。
「あいつが責めてたのは俺だよ」
「あの段階で手配しても難しかったですよ。対象が多過ぎです。今ならまだしも、あの時代では無理だ」
健吾はそう云う。
酒井とて解っている。最早救う術はなかった。なかった筈だ。