『夕子〜島の祭りの夜に啼き濡れて…〜』-1
1章 帰郷
「ホントだ。3つ…並んでる」
穏やかな波。穏やかな風。穏やかな光。フェリーのデッキ。睦美が、なびく髪を押さえて、波光の果てを、指す。
「だから、そう、言ったじゃない」
肩に手を掛ける。並ぶ、二つの、背中。
「朝一の生まれた島は…あの、左の島だよね?」
陽光に薄目がちになりながら、沖に浮かぶ3つの島影を見る。
「残念。向かって右の、だよ」
島影は整然と3つに連なって、二人の眼前に、ある。
「左から、中谷島、大谷島、そして…小谷島。一番小さいのが、俺の田舎だよ」
鼻に指を擦り、少し照れた顔で朝一が呟く。フェリーの走る跡。二手に分かれた白波。首筋を撫でる潮風が、二人の気持ちに透明感を与えてくれる。帰郷。睦美の淡い口紅が、朝一の目に清々しかった…。
中谷と大谷を経由して、フェリーは二人だけを乗せて、小谷島に入る。桟橋。白いバンの横に立つ人影。小さく上がる手に、朝一が手のひらで返す。
「親父、だよ」
睦美の背に、微かな緊張。降り立つ二人。対峙する少し曲った背中。睦美の挨拶に不器用な笑顔で答える。後部のドアを開け、二人を促す。朝一は睦美を後部席に乗せ、助手席に乗り込む。
「元気?みんな…」
「あぁ」
「おふくろは?」
「朝から支度しよるわ」
父と息子。言葉少なに交わす、過ぎた時間。睦美はそんな二人の肩を、柔らかい目で見る。時折、窓の外を眺め、出会う前の朝一に思いを馳せる。
「何もない所で…」
父の言葉に睦美は慌てて視線を戻す。
「いえ…」
言葉をそこで止める緊張感が、睦美を堅くする。
「お帰りぃ」
桟橋から15分程走った山間の集落に、朝一の実家はあった。玄関先。割烹着の袖を抜きながら、満面の笑みが二人を迎える。
「よぅ来たねぇ」
瞬間だけ朝一と目を合わせると、母は睦美に近付く。
「はじめまして」
睦美の腰が、丁寧に折れる。
「早く支度せんと、皆が来るで」
急かす様に父は玄関を駆け上がる。笑みを浮かべたまま、後に続く…。懐かしい、匂い。家の、匂い。畳、柱、天井。鍋から溢れる、懐かしい匂い。朝一は鞄を投げ置き、大の字に寝る。
「朝一!座布団、出さんね」
母が台所から声を掛ける。睦美が笑みを浮かべて、身の置き場を探している。自分で座布団を敷き、睦美が朝一の顔横に座る。頬の横で髪が揺れている。
「10年ぶり…かぁ」
朝一は大きく息を吸う。
日の暮れ始めから、懐かしい面々が朝一の家を訪ねてきた。親戚。友人。襖を外し、卓を並べ、宴が始まる。慣れない上座に、朝一と睦美は互いを何度も見遣る。
「よろしく頼むでな、朝ちゃんをよぉ」
腰の曲った婆が睦美の手を握る。
「よかったなぁ、朝一」
友人がグラスにビールを注ぎ足す。笑顔を恐縮を繰り返し、二人は結婚することを実感する。
「今日は結納と聞いてたが違うんか?祝い持って来て損したで」
伯父の言葉に皆が笑う。
「誰も言うてないがね」
母が大きく笑いながら伯父の肩を叩く。幾つもの赤い顔が、皆、笑みを浮かべて、朝一の帰郷と、睦美の存在を祝ってくれる。卓の下。睦美の小指が朝一の親指に触れる。交わす視線が、優しい…。
「おばさん、ごめんなさい遅くなって…」
玄関の向こう。声。母は立つことなく、招く。
「夕ちゃん、はよ上がり」
夕子。同い年の、いとこ。朝一の胸が、ふいに高鳴る。
「こんばんわ」
髪を耳に掛けながら夕子が皆に挨拶する。
「どんなや?おばさんの具合は?」
誰かが夕子に聞く。
「うん…落ち着いてるから…」
一瞬夕子の顔が曇る。夕子の母が心臓を患い、大谷島の病院に入院したことは朝一も聞いていた。
「久しぶり。元気だった?」
繕う笑顔で夕子が朝一に話し掛ける。
「あぁ…おばさん…どう?」
夕子の視線が睦美に移る。朝一の問いもそのままに、夕子が大きく首で会釈をする。
「いとこの…夕ちゃん」
朝一の紹介に睦美が笑顔を返す。二つの視線から逸れて、朝一の胸だけが大きく鳴っていた。