夜道を進む馬車-1
馬車は夜の道を進む。
カタカタと、馬車の車輪が街道にきしむ音。
その心地よい音を聞き流しながら、馬車の中のケニ―は、親のいない孤独と必死に闘っていた。
馬車の中は、座席も何もない狭い空間。ケニーは、うつむいて座っている。
夜空には星々がキラキラと瞬いて綺麗で明るいというのに、台車にはホロが屋根代わりに張られていて、暗い車内。
ケニーの横から、明かりが射している。月の明かりだ。ケニーの横は、馬車の出入口になっており、上からカーテンが下げられていた。
月明かりが薄いカーテン越しに、ケニ―の身体を照らす。
細い腕。小さな手。そして……ネズミ色の指輪。ケニーは右手の中指に指輪をはめていた。
指輪は錆びてネズミ色になっていたのだが、どこか、若い頃は戦地を駆け抜けた勇猛果敢な老戦死のような気高さが感じられる。
とつぜん、車内にやかましい音が響く。驚き、思わずケニーは顔を上げてしまう。
乗客のいびきであった。奥に乗客が一人横たわっている。体には毛布。気持ちのよさそうな顔。寝つきはいいらしい。
ケニーは顔を歪めた。顔を上げると、惨めな現実が身にしみ、孤独感が増した。
乗客は大きな荷物袋を枕にして眠っているが、ケニーは荷物を何も持っていない。毛布も何もない。つまり、手ぶらだった。
カーテンが夜風に揺れる。車内に流れてきた夜風は、とても冷たい。
ケニーは少しでも暖まろうと両腕をさすった。激しく激しく。
しかし、ちっとも、暖まってはくれなかった。ケニーは心の隅々まで冷え切っていた。
孤独という疲れと、先のわからない不安で。
「……もう、いや」
目尻にためていた涙を、口をつぐみ、流れ落ちるのをかろうじて堪える。
ケニーは祈るように、両手を握り合わせる。意識は指輪に集中していた。
目をつむり、誰にも聞こえないような小さな声で、決意を確かめる。
「この指輪は、命にかえて守り通ります。絶対に」
ケニーの生家は、伝統ある名家だった。
歴代の当主は数々の難関と苦境をその強靭な精神力で乗り超え、家の名を世に轟かせたのだ。
その当主としての証の指輪は、祖から子へと代々受け継がれてきた大切な物だった。
先祖代々の誇りだった。
そうであるがゆえに、何としても、何としても、ケニーは指輪を守り通す覚悟だった。
ケニ―の心を汲み取ったように意思とも関係なく、自然と神経が右足に集中する。爪先を残してかかとが、上がる。下がる。上がる。下がる。それは徐々に速度を上げていった。
ケニーの激しい貧乏揺すり。
いつのまにか、ケニーの瞳は恐怖に揺らいでいた。
シャッターを切ったカメラ写真の映像1コマ1コマのように、断片的に昨夜の出来事が思い出される。
――たくさんのコウモリ。
――数は百を超える、コウモリの真紅の眼。
――水死体のような血の気のない男の顔。
――その男の冷笑。
――そして、その男のくぐもった声。
「……指輪」
いつのまにか、拳に握られた手はギトギトと汗ばんでいた。
昨夜、父親と一緒に馬車に乗って、あるパーティから帰る途中だったケニーは、途中、襲われたのだ。たくさんのコウモリに。誰かに操られているかように、集団で襲ってきた。
ケニーは父親の言う通りに、馬車を降り逃げようとしたが、待ち伏せていた誰かに腕を掴まれてしまった。振り返った先に見たその男の顔こそ、例の男。つまり、水死体のような血の気のな顔の男。
その手を払いのけ、追いかけてきた男を振り切ろうと森を抜けて街に逃げたが、足の遅かったケニーでは、繁華街に身を隠すのが、やっとだった。――すぐに見つかる。その胸騒ぎがどうしてしずまらなかったケニーは、遠くに逃れようと、夜行馬車に乗ったのだった。
「来る……あの人は、必ず来る……」
ケニーの膝の揺れはしずまらなかった。目的のためになら、どんな汚い事にさえ手を染めかねないような男のにごった眼が頭に浮かぶ。
直感ではあったが、ケニーは例の男が指輪を奪いに来る気が、してならない。