夜道を進む馬車-2
ガタッ。
その音に、ケニーは顔が強張るのを感じた。カーテンの外にある馬車を降りる踏み段から、その音は聞こえた。
「誰かが……馬車に……乗ってきた?」
一瞬、例の男が頭を横切る。ケニーは恐る恐る目を向ける。カーテンの方に。
「まさか、もう追いついて……」
続く言葉が出なかった。両手で口を押え、目が恐怖でカッと開く。目尻から涙がこぼれおちた。
カーテンには人のシルエットが浮かび上がっていた。ボンヤリとした黒いシルエット。
そこに、人が立っているのあきらかだった。
―――例の男?
ネズミ色の指輪を見る。何としても、これだけは、守り抜かねばならない。
しかし、ケニーはある事実を悟った。
――逃げられない。
あまりの恐怖に、腰を抜かしていたのだ。黒いシルエットはカーテンにたたずんだまま、動かない。
が、動き出すのは、時間の問題のように思えた。
ケニ―の目は、恐怖におしやられた。嫌な事を想像してしまったのだ。
もし――男が鋭利な刃物を取り出したら……。
もし――それを胸に突き刺されたら……。
言いようのない悪寒が、ケニーを襲った。それは、どんなに、痛いのだろうか。
次の瞬間、生まれてから9年間しか使っていないケニーの幼い脳は、今までの人生で一番痛かった事を思い出していた。
扉の角と壁に、指をはさまれた痛みを思い出していた。指の皮が剥けた。3重にも。縫い針を数十本、指に射されては抜かれ、射されては抜かれたような激しい痛みだった。
「あの時より……痛いのかな……?」
ケニーの頬を、一粒の涙が流れ落ちた。
その時、シルエットがゆらりと動いた。
ケニーはきつく目をつむり、覚悟を決めた。しかし、それは傷みに対してではなかった。
――指輪は絶対に渡さない――
しかし、いつまでたっても痛みはこなかった。
そして、しばらくが経った。
だから、ケニーはおずおずと目を開けた。
黒いシルエットは、上半身を残したまま、動かなかった。もし、カーテンがまくられたのなら、踏み段に腰掛けた、少年が見えたことだろう。
カーテンが揺れ、夜風が車内に流れる。その人の匂いをふくんで。
ケニーは鼻をスンスンと動かした。鼻の奥を刺すような夜風の冷たい匂いとともに、その少年の匂いは感じられた。お日様の匂いのような暖かい匂いに、ケニーには感じられた。
その途端、ケニーは恐怖から解放され、心の底から安堵したように大きく息を吐く。
黒いシルエットは、例の男ではなかったことをケニ―は悟ったのだ。
男の匂いは、薬とカビが程よく混ざったような、すっぱくてきつくて嫌な匂いがするのだ。
ケニ―の嗅覚は、犬の嗅覚以上に様々な細かい匂いをかぎわけられる。ケニーの生まれつき備わった不思議な力だ。
「じゃあ……カーテンの外の人は、一体だれなの?」
ケニーは理解した。
おそらく、馬車のただ乗りだろう。
揺れる車内を、ケニーは膝を使って進むと、できるかぎりカーテンに近づいた。
ケニーとただ乗りの少年の距離は、カーテンを一枚へだてるのみ。
車内に流れる夜風が、ケニ―にその人の匂いを運ぶ。
花の香りを鼻に受けているように、ケニーの顔がやわらぐ。
「落ち着くな……何だか、父様といるよう……」
ケニーは体を丸めて、目を閉じた。
その人の匂いは、今のケニ―にとって、最良の薬だった。孤独という疲れと、先にたいする不安という病に対向してくれる薬だ。
今、ケニーは先の見えない未来なんて、どうでもよかった。
ただ、その人の近くにいたかった。
ただ、その人の匂いを感じていたかった。
その人に、話し掛ける勇気はケニ―にはないけど、ケニーはそれでよかった。
ケニ―はこんな状況でも、今を幸せだと思える自分を、好きだと思えた。
馬車はただ、夜の道を進む。