触覚-1
朝、目をさました主人公が一匹の巨大な虫に変わっていたという本をわたしは十七歳のときに読んだ記憶がある。ただ、本の表紙には虫の挿絵など、どこにも描かれていなかった。ほんとうは虫になった男のことを書いたものではない小説だったかもしれない。
わたしはその本を読んでいるうちに主人公の男の姿が見えなくなった。見えなくなったというより、男の触覚だけを感じたような気がする。ただ、その触覚がどういうものなのかはわからなかった。
その夜、わたしは、虫になった男の夢を見た。夢の中でわたしは暗い夜道を歩いていた。そして偶然、靴底で光る虫を踏みつけことに気がついた。虫は誰かの男の顔だった。踏みつけたことにわたしは何ら罪悪感も憐れみもいだかなかった。いや、それがほんとうに男の顔だったのか、虫だったのかわからない。もしかしたらわたしの意識の外にいた、わたしとは《何の関係も持つことができない異物》だったかもしれない。そしてわたしが踏みつけたのは、その異物の意識だったかもしれない。
でもわたしは、その異物の意識を《触覚》として性的に感じた。それはわたしが生まれて初めて感じた性の感傷に違いなかった。だからあのとき、わたしは、汐路というペンネームで虫らしき三人の男たちの物語を書き始めた………。
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まだ六十五歳、いや、もう六十五歳……そう思うといつのまにかそういう年齢の男になった自分に私はため息をついた。そんな私が、まさかあの少女をこんなに意識することが、いや、意識できることが不思議だった。
理由はたぶんわかっている。それは虫に変化した私に生えた触覚のせいだった。いや、正確には虫かどうかはわからない。おそらくそれは《私の虫のような意識》に違いなかった。そして虫が持っている触覚のようなものが私の意識をあの少女に向けさせたのだと思っている。
私はいつもの公園のベンチで杖を休め、少女が通っていると高校の門を見ている。最近は、以前の膝の傷が痛み、この歳で杖をつくようになり、散歩の途中でこの公園のベンチに腰をおろし、杖を休める。ただ、このことによって私が少女を意識するようになった偶然が与えられたことは皮肉なことかもしれない。
その少女が夕方、下校する姿を見るためだけに、そして私の前を何気なく通り過ぎていくときの彼女の香りに触覚が微かに蠢くのを感じるためだけに、いつのまにか公園のベンチで彼女を待っていた。
少女から漂ってくる香りは懐かしい風になり、私の記憶をくすぐった。少女の黒髪はとても艶やかでまっすぐ肩まで伸び、目鼻立ちははっきりとしていて、十七歳の少女とは思えないくらい大人びた顔は、つい触れてみたくなる愛らしい冷たさを感じさせた。
いつもの時間になるが、今日はまだ少女は現れない。少し離れたベンチで何人かの小学生がスケッチブックを手にして集まり、絵を描いていた。それを見た私は小さなため息をつく。
私も以前は絵を描いていたが、今はもう描くことはない。なぜなら感覚を失った右手は絵を描けなくなっていた。動作には異常がないのに自分の意思とはかけ離れた感覚だった。手だけでなく、身体全体がまるで死んでいるような感覚にいつも包まれていた。それは男性器においても同じだった。
自分は三十五年前のあのときから死んだ人間ではないかとさえ思ってしまう。いや、死んだというより自分を喪失してしまったと言った方がいいかもしれない。そして私は、あのとき初めて自分でも気がつかないうちに虫になってしまったのだと思っている。
不自由な身体の中で、あの少女に向けられた触覚だけはとても自由で、柔らかく、敏感で、脆く、優しく、敬虔ですらあることが不思議だった。それは三十五年前に私が感じた懐かしい触覚そのものだった。しかしその自分の《確かな触覚》を私は自らの目で見たことがなかった。触覚は指でもあり唇でもるような気がするが、それがいったいどこにあって、どんなものかわからない。
その触覚は少女の清らかな身体をとても性的に愛撫することができそうな気がした。それはあくまで触覚の意識であって、私はその意識だけで少女の体に触れることができる。そして、触覚の先に感じる少女の感覚はどこかあの人に似ていた。三十五年前、初めて自分が虫の触覚を感じたあの人に………。