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触覚
【SM 官能小説】

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触覚-9


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 彼は、別れた妻である雪乃の母親を美繭(みま)と呼んでいる。妻と結婚した当時、お義母さんと呼んでいた時期があったが、美繭は、自分を名前で呼んで欲しいと言った。それ以来、彼女が七十八歳になった今でも、彼は別れた妻の母親を美繭と呼んでいる。
 美繭は、都心から離れた海辺に近い古い家に住んでいる。もともと別荘だったその家は鬱蒼とした樹木に囲まれながらもデッキから眺める海の風景はとても素敵なものだった。でも妻の雪乃は美繭が父親と離婚し、渡欧したときから叔母といっしょに暮してきたので、その別荘のことはあまり記憶にないと言っていた。何よりも妻は母親の美繭の存在を疎ましいと思っていたのか、母親について多くを語ることはなく、いつも遠くの記憶へと追いやろうとしていた気がする。

「久しぶりね………やっぱり来てくれたのね。うれしいわ」
 美繭は寝室のベッドから起き上がり、不意に訪れた彼に微かな恥じらいを感じたように毛布で胸元を隠した。
ほつれた艶やかな白銀の髪を白い肩におぼめかせた彼女は裸だった。七十八歳とは思えないほど顔肌の皺の刻みは浅く、冷え冷えとした白さを湛えた肌はあの頃と変わらなかった。彼女はパリの大学病院で医師として働いていたが十年前に仕事を辞め、しばらくパリに留まっていたが最近、帰国したばかりだった。

 日曜日の夜、彼はマンションの向かいの古い喫茶店で軽い食事をしたあと、車で一時間ほどかけてここにやってきた。喫茶店の客は数人の大学生が窓側の席に座り、別の席には本を拡げたままぼんやりと窓の外を眺めている若い男がいた。彼はその店で何度か見かけたことのある男だった。
開け放たれた窓のレースのカーテンを微かに揺るがす潮風は生暖かく、夏の夜の月灯りをたっぷり含んでいた。
「今夜は暑かったから、こんな姿でベッドに入っているわ」
 あのときもそうだった。妻と離婚して一年目の夏、パリから一時帰国した美繭から連絡があってここを訪れたときもベッドの中の彼女は裸だった。そしてベッドのシーツに漂う彼女の軀(からだ)から滲み出したような甘い蜜の匂いを初めて彼が感じたときも、彼女は同じことを言って笑った。
「あたしの匂いに誘われた虫みたいな顔をしているわ………」
あのとき彼は、自分が彼女の匂いに誘われる虫に変わっていることに初めて気がついた。それまで彼はそういうふうに女性を感じたことはなかった。もちろん妻の雪乃の匂いさえ記憶にない。
以前、何かの機会があって雪乃の姪っ子の汐路とふたりで食事をしたときだった。
汐路が突然、彼に言った言葉だった。
美繭お婆さまって、花の蜜の匂いがするのよ。おじさまには、その匂いがわかる人のような気がするわ。
それはどうしてなのかと彼は聞いた。
彼女は上目遣いに彼の顔をのぞき込み、笑いながら言った。おじさまって、わたしの足で踏みつけられたいと思っているでしょう。さっきからわたしの足先ばかり見ているわ。きっとおじさまって虫になれる人だわ。虫になって、女の人が自分でも気がつかない匂いを嗅ぎ取れる男性かしら………。
なぜかそのとき彼には、汐路が十七歳の少女とは思えないほど小悪魔的で、彼という男を見抜いているような、とても大人びた女性に見えたことが不思議だった。
実際、彼は汐路の白いソックスの先の黒い靴先に微かな疼きを感じていた。ただ、それが彼にとってどういう疼きなのかわからなかった。それはいつか彼が見た夢の中に汐路が現れて、彼が汐路の足先で《確かに踏みにじられた感覚》であり、とても性的なのに、濁りがなく、それなのにとても濃密な匂いが感じられる感覚だった。 
そして美繭の軀(からだ)に匂いがあることを。汐路に言われて初めて意識するようになった。彼はそのときから美繭の蜜の匂いを追い求めるだけの虫になったような気がした。虫になった彼の触覚は美繭から漂う匂いだけにとても敏感に反応し、彼女の肉体のどんな部分の匂いも見逃さなかった。



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