触覚-5
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三か月前のことだった……。
ごめんなさい。もう、あなたとは会わない方がいいと思っているの……そんなメッセージが汐路からラインに入っていた。その理由は、虫になったぼくを汐路が踏みつけた夢を彼女が見たことだと書かれていた。なぜかぼくには、そのことが不可解なことだとは思えなかった………。
日曜日の夜、住宅街に古い喫茶店には、三人連れの家族とぼく以外に客はいなかった。無機質な照明の灯りと小さい音量で流れるモーツアルトのピアノの音楽。何もかも汐路と会っていたときと変わらない。違っていることは彼女が今夜ここにやって来ないということだけだった。
十七歳の汐路は、ぼくより五歳年下のガールフレンドだった。彼女と知り合ったのはぼくが高校三年生で、彼女はまだ中学生だった。以前、ぼくが部長をしていたことのある中学校のコーラス部を懐かしく訪れた夏の日に彼女と初めて出会った。彼女は合唱練習のピアノの伴奏をしていていた。その頃から何となくつき合い続け、ずっとこれからもぼくの恋人だと思っていた。だから彼女と突然、別れるなんて思いもしなかった。
汐路が十七歳になった誕生日にぼくは彼女とキスをした。もちろんぼくにとっても彼女にとっても生まれて初めてキスだった。それは触れるだけのキスだった。まるでふたりのあいだに漂うとらえどころのない空気が溶けていくような感覚だった。
そのとき彼女は言った。あなたって、まるで鏡の中からわたしを見て、鏡の中の視線だけで感傷のようなキスをするのね……。
ぼくにはその言葉の意味がわからなかった。確かなことは、彼女がぼくという男を恋人だとは思っていなかったということかもしれない。ぼくという男を彼女は、キスによって遠くに、《とらえどころのない異物》として感じたのかもしれない。そして、その二週間後、汐路はぼくにメッセージを送ってきたのだった。
この喫茶店でY…という若い男(おそらく三十歳半ば頃の年齢だろうか)がぼくの前に座り、ぼくに語りかけ、去って行ったことは、きっと偶然ではなかった。目にしているのは彼が今まで座っていた椅子と、窓の外に見える路地の暗闇だった。
店主の中年の女性は、その男がすすった珈琲カップをさげてよろしいでしょうかとぼくに尋ね、ぼくが答えることを待つことなく、無表情な顔をしてカップを片付けていった。ぼくはただ一人、テーブルに読んでもいない本を広げ、ときどき煙草に火をつけ、《その時間が早く過ぎていけばいい》と思い続けている。
以前、汐路とここで会っていたとき、彼女が笑いながら言ったことがあった。
あなたの眼って、とても深くて神秘的だわ。まるで虫の眼みたい。ぼくは、最初、彼女が言った言葉が理解できなかった。そんなはずはないと笑い返した。でも、ついさきほどまで自分の目の前にいたY…が、《あの人を抱く》ためにここからいなくなってからぼくは奇妙な自分の眼の痒みを感じた。
あの人とは汐路の叔母さんで、名前を雪乃さんと言った。歳は四十歳くらいの年齢だろうか。
ぼくは雪乃さんに初めて出会ったときからなぜか彼女に密かに惹かれていた。汐路が叔母さんのことを話すことをいつからか楽しみにしていた。
雪乃さんに対する意識は、やがて微妙な眼の変化となってぼくの瞳の中で疼き始めていた。雪乃さんを想うとき、ぼくの視線は彼女の真っ白なうなじを這い、衣服の下のぬくもりのある熟れた肌に拡がり、群がるように彼女の体の翳りに群がっていった。それはこれまでぼくが感じたことがないほど性的で、同時にまちがいなく虫の眼の感覚だった。そのことに汐路は気がついていた。
きっと店主の女性はぼくの姿に気がついている。ぼくが堅い殻に包まれ、ところどころに産毛のような奇怪な皮膚を晒した虫らしい姿であることに。ただ、ほんとうにぼくがそんな姿に見えるのかはわからない。そんなそぶりも見せず、驚きもしない彼女にとっては、そもそも《ぼくが虫である》ことに何ら興味がないらしい。
店のトイレで鏡の中に写った自分の姿をじっと見ていると、やはりぼくの身体は巨大な虫らしき異物に変わっている。そして透けた色硝子(ガラス)のような瞳にぼくは虫の眼を感じていた。