触覚-4
「おじさんは、いつもここで何を見ているのですか」
おじさんと呼ばれた相手が自分であると気がつかなかった。二度目に声をかけられたときに、私はいつのまにか喫茶店で見かけたあの若い男が自分の横のベンチに座っていることに気がついた。微かな胸の鼓動を抑えながら、不意にこぼれた言葉だった。
「きみは、あの少女を待っているのかね」
青年は驚いたように私に視線を向けた。
「いや……私の家の近くの喫茶店で、何度か、きみとあの少女がいっしょにいるところを見たことがあるものだから」と私は言った。
「そうでしたか。でも、今日は、彼女は正門から出てくることはありません。合唱部のコンクールに出かけています」
「彼女がいないのに、きみは彼女をここで待っているのですか」
「待っていたいと言ったほうがいいかもしれません。彼女とは、もう別れました……」
私はそれ以上、少女と彼の関係について尋ねることはしなかった。
彼はぽつりと話を始めた。少女は彼が心を寄せている女性が、ほんとうは自分ではなく彼女の叔母にあたる女性だということを知ったという。それが彼女と別れる原因だとも言った。
「どうして、彼女はきみがその叔母さんに心を惹かれていることに気がついたのだろうね」
「汐路は知っていたのです。ぼくの目が、彼女の叔母さんを見るときに虫の眼に変わることを」
「虫の眼………それはいったいどういうことなのかね」
彼は少し考え込んでから言った。
「最初は、自分の瞳が虫の眼であることに気がつきませんでした。でも、彼女の叔母さんを見ているときだけは、いつもぼくが見ている憧憬と違っていました。何かの本で読んだことがあります。人間って可視光線に含まれる色でいろいろなものを見ますが、虫は人間がとらえられない紫外線で色や形を見るのです。おそらくぼくの目はそういう眼に変わっていたのだと思います。ぼくは汐路の叔母さんに視線を注ぐときだけ、自分の目が変化するのを感じました」
私は黙って彼の話を聞いていた。
「ぼくは、汐路を見ているときと違って、叔母さんを見るときだけは自分でも気がつかないうちに虫の眼になっているのです。汐路は、ぼくの眼に彼女が映っていないことを感じ取ったのです」
あの人に出来上がった裸婦像のペン画を差し出したとき、彼女はわたしが描いた絵をとても気に入ってくれた。そして言った。まるであなたの中にある見えない虫のような触覚で描いたようだわ。そして彼女は私を寝室のベッドに誘った。それは虫になった私を彼女が確かめるためのものだとわかった。
私にとっては女性との初めて経験だった。私はベッドの中で彼女と交わっているあいだ《虫になる自分》を感じていた。彼女によって私の何かが覚まされ、自分の中で彼女と交わる触覚が息吹くようにあっというまに育っていったのを。
それは私がそれまで感じていたもの以上に完璧な虫だった。 自分の現実の姿を従順に、敬虔に、純粋に、消し去り、完璧な虫としての触覚だけで彼女を受け入れていた。
それは肉体そのものではなく、肉体以上に彼女を感じる触覚であり、触覚の先端は万華鏡にように煌めき、解き放たれるような無垢なまどろみに浸り、私が忘れていた甘やかな性の放恣そのものだった。そういう関係になれた女性は、私がこれまで生きてきた記憶の中で彼女だけだった………。
ふと気がついたとき、ベンチの隣に座っていた彼はいなかった。黄昏色に染められた公園で、私はただひとりだけベンチに残されていた。公園の向かい側のビルにオレンジ色の灯りがついた。
彼が言ったとおり、今日は少女と会うことはできなかった。明日はきっと会えるだろう。そしたら私は、ふたたび懐かしい虫の触覚を感じることができる。そして三十五前に、もしかしたらあの人を愛してしまった自分に会えることができる。それ以外に今の私が望むことは何もなかった………。