触覚-2
美術大学を卒業し、画家を目指したときもあった。平凡なサラリーマンとなり、誰と恋することなくも結婚もしなかった。会社で最後の五年間は仕事が与えられなかった。薄暗い資料室で黙々と資料の整理だけをしていた。そして六十歳になったとき仕事を辞めた。
振り返ってみれば生きてきた軌跡に自分という人間の跡は何も残ってはいなかった。自分がどう生きてきたのか、どう生きようとしたのか、どうして誰かを愛することができなかったのか、わからなかった。それがよかったとか悪かったとは毛頭思っていない。ただ、今となっては遠い記憶となってしまったあの人との思い出だけが何よりも私の救いとなっていた。
三十五年前、大学時代の友人たちと、たまたま絵の展覧会を画廊で開いていたとき、彼女は私が描いたペン画をとても気に入り、高額の値段で買ってくれた。それがあの人との出会いだった。四十歳くらいの背筋がすっと伸びた美しい女性だった。
あの人は、私に自分の裸婦像をペン画で描いて欲しいと言った。私は戸惑った。それまで裸婦像を描いたことはなく、描きたいと思った女性にも巡りあったことはなかったからだ。
彼女には医師の夫がいた。でも夫は三か月間だけ南フランスの病院に仕事に行っているから、そのあいだ自分が滞在している別荘で描いて欲しいと言った。私は何かしらうしろめたさを感じたが、彼女は何かを気にすることなく自分の別荘に私を迎え入れた。
たとえようもなく白い肌をした均整のとれた裸体は、注がれる私の視線を冷たく吸い込んでいくようだった。何よりも女性の裸体を目(ま)のあたりにするのは初めてだった。彼女の体は不思議なほど彫塑的な硬質の厳しさと冷たさを湛えていた。いや、そのときの私がそう思っただけのことかもしれない。私の視線の先に淡い光に照らされた肉肌の鼓動が幽かに感じられたとき、それは私の心と身体の《どこかの部分》をくすぐった。
モデルとして全裸になったあの人を描いているあいだ、自分の身体がいつもと違って不思議なほど火照っていた。目の前にした女性の肉惑的な身体に対する欲情というより、自分の意識と体が溶け、自分が自分の外の世界に放たれ、自分でない姿に脱皮しているような感覚だった。まるで自分の身体が去勢され、冴え冴えとした意識の触覚だけが烈しく彼女の体の輪郭と肌の翳りを淫靡に這いまわっているようだった。
私は週末になると別荘を訪れ、彼女の裸婦像を描き続けた。彼女は、自分が気に入るまで何度も描き直して欲しいと言った。そのときの私は彼女を描いているというより、私の中の何かが彼女の肉体によって芽生えさせられている感覚に襲われていたような気がした。
それまでどんな女性も意識したことがなかった私が、彼女の裸体のペン画を描き始めた瞬間からペンを持つ指がいつもと違い、奇妙に、そして滑らかに動いた。それは自分の指ではなく、まるで別の生きもののように目まぐるしく蠢いた。
何度も描き直した彼女の裸婦像のペン画がようやく完成し、彼女がようやくそれを受け取ったとき、私は自分がいつのまにか虫の姿に変わっていることに気がついた。そして、触覚で描かれたペン画は完璧に私が望んだものになっていた………。
公園のベンチから見あげた空の雲が切れ、柔らかな黄昏の光が遠い記憶を撫でていく。
仕事を辞めてから日々の生活は気だるく意味もなく過ぎていった。朝、決まった時間に起きて、散歩をして、庭の草花に手をほどこし、音楽を聞きながら午睡に身をゆだね、夕方、眼を覚ますとふたたび散歩をして、夜は一杯のワインに舌を浸す。それが毎日の生活だった。そして日課の散歩であの少女を眺め、ほんの一瞬だが、私は少女の瑞々しい空気を吸い、風を感じ、花のような匂いを感じ、まるで花弁の蕾に自分の触覚を意識しながら少女に視線を注ごうとしていた。