触覚-12
潮風がとても心地よい夜だった。彼と美繭は火照った身体を沈めるように裸のまま開け放された窓際のソファに並んで座り、互いの肉体の余韻を確かめ合うように体を寄せ合っていた。
窓から漂ってくる生暖かい夜気に、彼女は湿った疎らな陰毛をなびかせ、彼は静かに萎えきったものをゆだねていた。
彼女が用意してくれたシャンパンの泡は、まるでふたりの肉体の余韻から立ち上る気泡のように静かで、淡く、それは彼女の匂いを漂わせているような気がした。
いつも壁にかけられた裸婦のペン画のことを彼は美繭に聞こうと思っていた。彼が最初にこの部屋に来たときからあの絵がいつも自分を見ているような気がした。彼はその絵が美繭を描いたものであることに気がついていた。ただ、いったい誰がこの絵を描いたのか気になり続けていた。なぜならこの絵に込められた作者の視線に彼と同じ虫の気配を感じていた。
「三十年以上前かしら、ある若い男性に描いてもらったペン画なの。クロゼットの中にしまっておいたものだけど、汐路さんがとても気に入って部屋に飾ったのよ」と言いながら美繭がグラスのシャンパンを口にしたとき、グラスの底に細かい気泡が舞いあがり、弾けた。
まるで虫の触覚で描いたような細いペンの線は、彼女の顔の表情や身体の輪郭を正確に、まるで絵の中の彼女をくすぐるように精密に描かれていた。
「この絵を描いてくれた彼は、そのときのあたしよりひとまわり以上も年下だったわ。あたしにとってはおそらく最初で、最後の男だったかもしれない……」そう言って笑みを浮かべた美繭は彼の頬に唇を寄せた。
「でも、あなたは雪乃の父親と結婚していた……」
「あら、好きになることと結婚することは別だわ」と言って彼女は笑った。
美繭は壁の絵をじっと凝視しながら言った。
「夫は、亡くなるまでこの絵のことについて尋ねることはなかったわ。ここに描かれている裸婦が誰なのかを知っていたのに、いったい誰に描かれたのか、いつ描かれたのか、あたしに何ひとつ問うことはなかった……」
「ご主人はどんな方だったのでしょうか」
彼女は頬を微かに強ばらせながら言った。
「愛のないセックスがとても上手だったわ。愛がなくてもあたしを抱ける人。もしかしたら男ってみんそうなのかもしれないわ。そしてあたしは夫とのセックスにとても充たされているふりをしたわ……嫌な女でしょう、あたしって」
彼女は無意識に彼のペニスに手を添えた。まるでそれが自然な行為のように。彼女の掌の冷たさがペニスに滲み込んでくる。
「でも、あなたには、あたしに対する愛が感じられるの」と言って彼女は微かな笑みを浮かべた。
包皮の表面をゆるく這う彼女の指のあいだから喘ぐように亀頭が顔を出している。彼女の指で操られるペニスは、彼女に撫でられるほどにふたたび血流を取り戻し、堅くなり、そそり立ってくる……それは彼の意思であり、同時に彼女の意思であるように思えた。
「夫は虫にはなれなかった……だから夫と別れたわ」
不意に彼女が言った言葉だった。
「ぼくには、よくわかりません……」と彼は小さくつぶやいた。
「あら、それはあなたが一番わかっていることではないのかしら。あなたがあの子に対して虫になれなかったことと同じだわ。そうなのよ、妻に対して虫になれない夫の意識の希薄さとでもいうのかしら。夫がいて妻であるという関係は、たとえ愛し合っていたとしても《関係としては存在しないこと》と同じだわ。存在しないという疎外、恐れ、慄(おのの)き、嫉妬、苦痛、それらを失った夫婦の関係の切なさかしら」
美繭は指の動きを止めることなく、もう片方の掌で彼の頬を撫で、薄く開いた唇をゆっくり重ねた。彼はそのときすでに彼女の匂いだけを嗅ぐ虫になっていた。自分が自分でない、自分に含まれないもうひとりの存在としての虫になり、彼女の匂いを敏感に感じ取り、呼吸を始める。
「夫と別れたとき、あたしは妊娠していたわ。でも夫の子ではなかった……」
「どういうことでしょうか」
「夫は別れる寸前まで気がつかなかったわ。あの絵を描いた男性とあたしが密かに交わっていたことを………そして生まれてきた赤子が夫の子供でないことを」
彼女の指とペニスの戯れ、同時に唇の中で互いの舌が唾液を溜めながら絡みあう。彼女の匂いを貪る嗅覚だけが冴えわたり、肉体が溶けていく。
「雪乃は知らないわ……自分の父親がいったい誰なのか」と彼女はさらりと言った。
夜空のぽっかりと浮かんだ月が、生まれたままの姿の彼と美繭を包み込むように照らしていた。
彼の呼吸がしだいに荒々しくなる。美繭は彼のものを握り絞めたまま強く擦りあげる。
夏の夜の長い時間が過ぎていく。彼は、彼女に自分のものをゆだねているあいだ、どこから聞こえてくるのか、耳の奥に虫の音(ね)を感じた。虫は、彼と美繭のあいだの無垢な静けさを乱すことがないように鳴いていた。
一瞬、体の芯が微かに痙攣したとき、彼は美繭の掌の中にふたたび射精をした。ただ、彼女の指のあだから滴った白濁液には、匂い立つものはなかった………。