白衣の天使-1
のどかな温泉町の中にある椎名診療所には、毎日さまざまな病を抱えた患者がやって来る。とても腕の良い医師がいると聞き、どんなにひどい怪我や病気もたちどころに治してしまうので、「神の手」を持っているのだと誰もが疑わずに噂したとか、しないとか。
けれどもすべての医療施設が良心的とはかぎらない昨今である。占い師や祈祷師を雇っては禍々しい儀式をおこない、これは難病奇病だと信用させておいて、立場の弱い患者から多額の治療費をむしり取る病院も少なくない。
「ウイルス性の胃腸炎ですね。熱が出たのも、おそらくそのせいでしょう」
不安げに肩を落とす女性患者に対し、壮年の男性医師が落ち着いた声をかける。彼は椎名雅人(しいなまさと)という名の誠実な人物である。
「とりあえず五日分のお薬を出しておきます。それでも症状がおさまらないようでしたら、またこちらへ来てください」
「ありがとうございます」
「お大事に」
正しい診断を下すのはもちろんのこと、的確な処置や薬の処方、それに往診での世間話が椎名の主な仕事だった。だがそれらすべてを彼一人が担っているわけではない。
「椎名先生、ちょっとよろしいでしょうか」
うら若い女性看護師の高崎恵麻(たかさきえま)が、ファイルを胸に抱いて診察室に入ってきた。小柄で可愛らしい見た目通り、細やかな気配りの出来る心強い人材だ。両目の下に小さなほくろがあり、それが彼女の魅力でもある。
「こちらの書類にサインをお願いします」
「わかった、あとで目を通しておくよ」
「それからもうひとつ」
彼女はファイルの束を机の上に置くと、目上の椎名に向かって白衣を脱ぐよう言い添えた。袖口の解れが気になったので、常備している裁縫道具であっという間に修復し、澄ました顔で一礼する。彼女もまた「神の手」の持ち主ということなのだろう。
むずかしい手術も受け持つ椎名は縫合の手際こそ一流なのだが、身だしなみには無頓着なところがあり、世話を焼いてくれるパートナーがいないと何ひとつまともに出来ないのだ。
「高崎さん、いつも悪いね」
「いいえ、これくらい朝飯前です」
「朝飯前というか、もうとっくにお昼を過ぎてるんだけどね。ははは」
「先生、笑えない冗談はやめてください」
助手である恵麻が無表情で冷たく言うので、椎名はこめかみから冷や汗を垂らした。心なしか、部屋の隅に置かれた人体模型も失笑しているように見える。やれやれ、である。
それにしても不思議だなあ、と椎名はいつも感心していた。細身な恵麻のナース服はとてもスリムなのに、ポケットを探れば手品のように何でも出てくるからだ。
裁縫道具をはじめ、体温計や絆創膏など、どこか別の場所とつながっているのではと想像してしまうほど謎に満ちたポケット。つい先日はコンペイトウを取り出し、注射が怖くて泣きじゃくる子どもを笑顔にさせてしまうのだから、いやはや大したものである。
とはいえ、重篤な病を治すことは看護師にはできない。だからこそ恵麻は思う。町の人たちが少しでも健やかに暮らせるよう、そして椎名診療所に拾ってもらった恩を返せるよう、時間の許すかぎり看護に身を尽くす所存であると。
「先生、昼食はどうされますか?」
午前の診察が一段落したところで恵麻が訊いた。すると椎名は、うーんと腕組みをしながら近所にある食堂のお品書きを思い浮かべ、ど、れ、に、し、よ、う、か、な、と指を振る。
焼き飯に餃子を付けたいところだが、いや待てよ、にんにくの臭いを診察室に持ち込むのはよろしくないか、だとするとカレーライスか幕の内弁当の二択だな、と決着をつける。
「私、お弁当を作ってきたんですけど」
店屋物ばかり食べている椎名の栄養面を心配して、二人分の手作り弁当を持参してきたのだと恵麻は言った。水筒に入っているのは母親直伝の野菜スープだ。
ちなみに彼女はアニメオタクでもあるため、弁当箱にも水筒にも二次元の美少女キャラがこれでもかと描かれている。
「これ全部、君が作ったの?」
「もちろんです。こう見えても料理は得意なほうなので」
粗末な机の上に弁当を二つ並べただけで、そこはもう立派な食卓に早変わりだ。言うまでもなく味も絶品で、普段はクールな印象の恵麻にこんな一面があるとは、独身の椎名は唸るしかない。
玉子焼き、赤ウインナー、唐揚げ、添え物の野菜、お新香、わかめご飯。どれもこれも彼の大好物ばかりである。
「こんなにうまい昼飯は久しぶりだなあ」
「お口に合ったのなら良かったです。まあ、点滴には敵いませんけど」
「そういうことじゃないと思うんだけど……」
椎名は苦笑いする。真顔で言われても対応に困るし、栄養は口から摂取するほうが望ましいと思うからだ。
それはさておき、恵麻の私生活を垣間見たような気がした椎名は、所帯を持つとはこういうことなのだろうかと彼女の美麗な顔をまじまじと見つめた。
「私の顔に何か書いてあります?」
「いやその、君にしては珍しいなと思って」
「何がですか?」
「お弁当だよ。作ってくれた理由を是非とも知りたくてね」
「とくに理由はありません」
「あ、そうなんだ……」
「どうしても理由を挙げろとおっしゃるのなら、適当にこじつけますけど」
白衣の天使が事務的に言う。そんな彼女の態度に気圧された椎名は、どうしてこんな変わり者の女の子を雇っちゃったんだろう、と密かに後悔した。
「ごちそうさま。全部うまかった」
お世辞ではなかった。そんな彼の評価を真に受けた恵麻は、感情をおもてに出さぬよう意識しながらも頬の火照りを自覚し、玉子焼きの最後の一切れを口に放り込んだ。