白衣の天使-5
「顔色、ずいぶん良くなりましたね」
ベッドの上の患者に話しかけながら、恵麻は慈悲深い微笑みを浮かべた。点滴を交換し、検温を済ませ、血圧と脈拍も計ってある。
「ごめんなさい、迷惑かけちゃって……」
患者の女性は弱々しく詫びた。赤みの抜けた唇は病人そのものだが、夕べよりはいくらか元気そうに見える。
「迷惑だなんて、私はあたりまえのことをしただけです」
「でも、徹夜だったんでしょう?」
窓の外には朝日が昇っている。
「夜勤は慣れてます。それに、このナース服がただのコスプレじゃないってことを証明したいので」
女性の口元が綻び、緊張が解けると、くすっと恵麻も吹き出した。途端に部屋の雰囲気が明るくなった。
「おはよう。笑い声が聞こえてたけど、二人で何を話してたんだい?」
眠そうな目つきの椎名が病室をおとずれると、恵麻の顔から一切の表情が消えた。
「先生には関係のない話です。それから、この病室は男子禁制のはずですが」
「おいおい、誰がそんな規則を作ったんだ」
「もちろん私です。患者さんのストレスを取り除くのも看護師の仕事なので」
「そんな無茶な。診療所から医者を取り除いたら本末転倒じゃないか」
「私は医者を取り除くとは言ってません。取り除いて欲しいのは下心です」
ははあ、さては焼き餅を焼いてるな、と椎名が恵麻の心理を読もうとしていると女性の笑い声がした。
「お二人は仲がいいんですね。羨ましい」
それは誤解です、と恵麻は子どもみたいに頬をふくらませて強く否定した。
「いいえ、見ていればわかります。私はすごくお似合いだと思いますけど」
そう言われると恵麻は否定できなかった。椎名も何も言い返さない。喧嘩するほど仲がいいと言われているようで恥ずかしかった。
「余計なお世話かもしれませんけど、この診療所はほんとうに静かですね。私のほかに入院されている方はいないんですか?」
女性のこの問いに、椎名が答えた。
「今はいません。以前はもっとたくさんの入院患者がいました。もちろん看護師も」
「それだけ病気にかかる人が減ってきているということでしょうか」
「そうでしょうね。医師が一人に看護師が一人、どちらかが欠けたら診療所は成り立たなくなります。でも患者がいないのだから、休んだとしても誰も困らないんですけどね」
自分でしゃべっていて椎名は虚しくなった。このままでは恵麻に支給する手当てだってどうなるかわからない。もっと患者が増えてくれたら、などと愚かなことを考えたりもしたが、医師失格だなと反省した。
「高崎さん、彼女に書類を」
「わかりました」
恵麻は書類を手渡し、受け取った女性がペンで記入していく。新山夕姫(にいやまゆき)というのが彼女の名前らしい。保険証を持っていないというので、後日あらためて提示してもらう旨を伝えて夕方には退院となった。
「どうもお世話になりました」
新山夕姫は何度も腰を折った。体調不良の原因はPMS、いわゆる月経前症候群によるものだった。女性の体は飴細工よりも繊細にできているのだ。
「ここは専門のクリニックではないですけど、何かありましたらいつでもご相談ください」
恵麻が玄関まで見送る。しかし新山夕姫を一人で帰すのは不安なので、椎名が自家用車で送ることになった。
「高崎くん、あとは頼んだよ」
「わかりました。くれぐれも安全運転でお願いします」
「心配無用。それじゃあ」
そうして走り去る彼の車を目で追いながら、恵麻は言いようのない胸騒ぎをおぼえていた。新山夕姫というあの女性、椎名が熱を上げたとしても不思議ではないほどの美貌の持ち主だった。
甘い罠にかからなければいいのだけど、と恵麻は湯煙の立ち上る町並みに立ち尽くし、平穏な日常が蝕まれていくのではないかと眉をひそめ、白い吐息をついた。冬至の冷たい空気に、柚子の香りが仄かに混じっていた。