白衣の天使-3
「僕が留守のあいだに、まさかそんなことがあったとはね」
往診から帰ったばかりの椎名は、恵麻の話を聞くなりおどろきを露わにした。マフラーと手袋を外し、彼女の淹れてくれたコーヒーにかじかんだ手を伸ばす。
「一時はどうなることかと思いましたけど、大騒ぎにならなくて良かったです」
「うんうん。で、高崎さんは何ともなかったんだよね?」
「そうですけど、医師の資格もない私が勝手な真似をしたのは事実です。軽率でした。申し訳ありません」
恵麻が深々と頭を下げる。栗色の長い髪が蛍光灯の下で揺れてかがやいた。
「いや、高崎さんの判断は正しかったと思う。診療時間外だったとはいえ、一人の患者さんが救われたわけだから、君に落ち度はなかったはずだ」
「すみません」
ほっと吐息をつき、恵麻もコーヒーカップに口をつける。そして椎名が往診がてらに買ってきたたい焼きをストーブの上で温め、尻尾のほうからかじりつくと、焦げた生地の香ばしい風味が鼻から抜けていった。
「高崎さんは尻尾派なんだね」
二匹目のたい焼きに手を伸ばしながら椎名は言った。頭から先に食べるか尻尾から先に食べるか、という話をしていた。
「僕は子どもの頃から頭派なんだ」
「なぜですか?」
「そりゃあ頭のほうに餡子がたっぷり詰まっているからね。皮は皮で香ばしくておいしいけど、甘い餡子の誘惑には勝てないなあ」
シッポ、アタマ、と呪文みたいに唱えながら恵麻は先ほどの男性患者とのやり取りを反芻する。
まず第一印象が最悪だったので、きっと女性看護師が目的で診療所に来たのだろうと恵麻は警戒していた。診察室で二人きりになった時など、上半身が先か下半身が先か、と体をもてあそばれる覚悟をしていたのも事実だ。
結局、恵麻は頭も尻尾も食べられずに済んだわけで、何の被害もなかったが、ひとつだけ男性の行動で気になっていることがあった。
それは、彼が上着のポケットから何かを取り出そうとしていた、あの瞬間である。
恵麻は首をかしげる。あのまま言うことを聞かずに抵抗していたら、彼はポケットから何を取り出すつもりだったのか。今となっては確かめるすべもないのだが、どうにもすっきりしないのだった。
そんな彼女のただならぬ様子を知ってか知らずか、椎名はわざとらしく咳払いした。はっと我に返る恵麻に、椎名は言った。
「このあいだはお弁当をありがとう。そのお礼と言っちゃあ何だけど、僕のおごりで一緒に食事でもどうだろう」
女性を食事に誘うのはあまり得意ではない椎名である。
「私、そんなつもりでお弁当を作ったわけではありません」
「それはわかってる。僕がそうしたいんだ。君にはいつも助けられているからね」
「点数稼ぎのためですか?」
「まあ、そう思ってもらってもかまわない」
「そうですか、わかりました。ではお言葉に甘えてご一緒させていただきます」
やれやれ、と椎名は残りのコーヒーを飲み干し、ずっと温めていた「高崎恵麻を口説くためのプラン」を白紙に戻そうと思った。
「先生、そろそろ診察の準備を」
「おっと、もうこんな時間か」
雪が降ろうが槍が降ろうが患者はやって来るのだ。食事の予約は後回しにして、重い腰を上げた椎名が聴診器の具合いを点検していると受付の黒電話が鳴り出した。私が、と言って恵麻がすかさず受話器を取る。
「椎名診療所です」
恵麻は迅速かつ適切に対応した。一分一秒の遅れが命取りになることもあるからだ。
ところが電話の相手はうんともすんとも言わない。一体どうしたというのか。
「もしもし?」
電話の調子が悪いのかな、と恵麻が何度呼びかけても反応はなく、埒が明かないので仕方なく受話器を置いた。電話の横にはお気に入りのフィギュアたちが並んでいる。
「電話、誰からだった?」と椎名。
「わかりません。間違い電話でしょうか」
恵麻は首を振るしかない。いたずら電話だとしたらいい迷惑である。
しかしその様子を見ていた天才医師がおかしな行動に出る。受付カウンターに近づき、しばらく考え込んだあと、患者を診るのと同じ要領で黒電話に聴診器をあててつぶやいた。
「うん、やっぱり間違い電話のようだね」
「……」
椎名の真面目腐った様子に呆れ、恵麻は目が点になった。このペアは今日かぎりで解消しよう、と彼女は本気で思った。