カルトゲリラ、狂気の論理とイデオロギー(第一章・完)-2
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その手の思想・宗教や哲学的な弁論術や修辞学というのは残念ながら、思惑に潜んだ悪意や歪んだ動機があれば、いくらでも体裁を繕って論理や理論を捏造・構築して詭弁と詐欺や欺瞞に悪用出来てしまう。
それゆえに一見は立派に見える(それなりに有益な面もある)中国の儒学思想がしばしば卑怯卑劣の欺瞞に悪用されるのが常態で、ろくでもない腐れ儒者の温床になっていた。本来は慈悲の教えであるキリスト教ですら一部は(必ずしも悪気はなかったにも関わらず)悪い意味で狂信化や宗派抗争となり、元は古代末期中東の啓蒙思想の類であったイスラムも同様。
ある程度まともな伝統的な教えでさえ、偏って癖があったり人間側による運用上のミスで、しょせん人間のやることや考えることはしばしばそんな悲しい顛末である。ましてや最初から悪意と狂ったエゴイズムの盗賊カルトゲリラに付ける薬はない。昔のコリアンの反日原理主義・ウリナラ民族至上思想や共産中華思想と大差がない集団狂気や無惨の典型事例でしかない。
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こうして日々にカルトゲリラによる海賊放送で、狂った方向に覚醒する馬鹿も後を絶たないらしい。人間というのは自分に都合の良い教説を信じたがるものであるから。利益や快楽が第一で、論理的な正しさは二の次であったりするものなのだ。
あの「三位一体」のキリスト教の不可解な教説にしたところで、白人たちからすれば論理的な是非以前に「その教えの教会でヨーロッパの歴史と文明が救われたから」「ご利益が実証されているから」であり、その「有り難さ」は教会の聖遺物や日本人の三種の神器と同質の理由だったりする。人々が教皇や天皇や国王が健在、伝統的な司教座や神社などが正常稼働しているのを知るとなんとなく安心するのも同じ。
そんな人間心理の常の「裏街道」「アンチテーゼ」として、困窮者や凶暴な人間や犯罪者が「救い」を求めて、カルトゲリラに新規加担や参加しているし、あまりにも勢力の総量が大きいために政治的に無視できず、まともなはずのどこかの政府が敵を叩くために利己的・便宜的理由で裏で援助したりするのでどうにもならない。一時期、一昔前の共産主義だのテロ過激派ビジネスと変わらない理屈と本質なのだろう。
もはや怒りを通り越して「汚物や害虫のように気持ち悪い」レベルの病的な凶悪ど変態どもの集団が世界の半分を実効支配しているのが現在の世の中であった。
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(付き合いきれるか、ボケッ!)
セラはだんだん頭に血が上ってきて、かえって非効率なので、休憩することにする。ちょうど昼御飯だ。ラジオを叩きつけて壊しそうになる衝動を抑え、どうにかスイッチオフするに留める。
ちょうど下の方のテーブルではパトリシアが昼食の支度をし、セラが腹部コックピットから顔を出すと「ご飯!」と手招きしてくれる。あの旧知のミレーユ(眼鏡のパン屋)も小さな娘と遊びに来ていた。
「セラぁ! かぷりこ、見に来た!」
小さな三歳か四歳くらいの女の子が走ってくる。
つい、条件反射で抱き上げてしまった。
そして、自分と似た出生事情のこの子も、将来に自分のことで悩むのかもしれないなどと、少し複雑な気分になるのだった。
「どうして悲しい顔するの?」
「ちょっとコンピュータやってて、疲れただけ。ご飯食べたら元気になるわ。あんたのママが焼きたてのパンを差し入れてくれたんでしょ? 普段は買い置きばっかりだから、すっごく楽しみ」
笑顔を作ってキスしてやりながら、セラは切なくて泣きそうになるのをどうにか堪えた。