天井の金魚-3
犯罪は加害者が絶対的に有利だ―――何故ならいかに有罪になろうとも、失ったものは返って来ないからだ。
時も、金も、夢も、当たり前の幸せも―――当たり前に来る筈だった明日も。
解っている。男は、谷町敏之はそれを幾つも幾つも見て来たから。
そしてそれを背負いきれなくなった。他人事だと、折り合いがつけられなくなった。
あの日から。
彼女の顔が浮かぶ。
笑っている顔。いつも見ていた顔。
―――こんにちは。
彼女の声を思う。
助けて、助けて、許して、止めて、止めて、痛いよ、お母さん、お願い、怖い、助けて助けて助けてたすけてうちにかえしてこわいよいたいよやめてやめてやめてもうやめて。
たすけて―――お巡りさん。
「知ってます。知ってますよ。知りたくないくらい知ってる」
調書に触れれば解る。報道で隠されたこと。傷を抉る真実。
返らない、平穏な日々。
耳を塞ぎ、目を覆いたくなる真実に触れて―――谷町敏之は、諦めた。
自分はもう、受け止められない。
重たすぎるもの―――人の悪意を。
そして自らを焼く、強烈な憎しみと殺意を。
「谷町、忘れろ。医者行って薬貰え」
酒井は知っている。
谷町の辞職は自分から退職を願った事にはなっているし、勿論本人の気持ちもあるのだが―――犯罪をした人間に対する敵意が強すぎて暴力を振いかねないから、休職を勧められた所為もあるのだ。
「もう貰ってます」
谷町は疲れた顔で笑う。
「お前は優しすぎるよ。のんびりしたとこで駐在でもした方が良かった」
「そうかも知れませんね」
赤い目をしたまま、谷町は立ち上がった。
「お世話になりました」
深く、頭を下げる。
「なあ谷町。お前息子が生まれるんだろ?」
「はい」
「大事にしてやれよ。偏見だの、支配欲だの、そんなもの教えずに―――」
酒井は、俯いた。
この世が無情である事などとうに解っている。
それでも世の中に、絵に描いたように幸せな人間が居るのも確かだ。