田舎暮らし-1
下条夫婦が降り立ったt市の川浦地区の春は里山を迎え新緑が目に映えていた。
関西から新幹線を乗り継いで3時間、バスを降りると役所に赴いた。
案内の職員から聞いて尋ねた課には3人ほどの職員が机に向かっていた。
「ごめんなさい」
下条の夫が声をかけると眼鏡越しに振り向いた男が窓口に立った。
「先日電話をした下条です」
「ああ、下条さんねお待ちしていました、どうぞ」
笑顔で迎えた男は田中始といった。
「遠い所からご苦労さんです、先日申し込みがございました借家にご案内します。」
田中は市の車に二人を乗せ案内した。
「ここから20分です、とてもいい所ですよ、と言っても都会の方ではご不便かもしれませんが」
「妻は以前から田舎暮らしがしたいと言ってききませんので、私が単身赴任する間だけでも体験させたいと思いましてね」
「ごめんなさい、わがまま言って」
隣に乗る妻が申し訳そうに言葉を返した。
初めて見た時から田中はこの女性に好感を覚えていたがバックミラー越しに改めて見返すと溜まらなく美人であることに気が付いた。
「奥様は何とおっしゃるのですか?」
「私・・いくです、どうぞよろしくお願いします」
「はい、できる限りサポートさせていただきます、ご趣味などありましたらお聞かせください市でもいろんなサークルもありますから」
「多少クラフトとか料理も好きです」
「そうですか、それはいいですね」
田中は笑顔浮かべ会話をしながら借家に向かっていた。
「あの家です・・古民家ですので相当古いですが」
「あなた写真で見るより素敵な家ね、あなたが戻るまではここで私、楽しむわ」
「オイオイ、そんなに子供みたいにはしゃいで」
下条はひとり妻をこんな山奥に置いて帰ることの不安を感じながら言った。
三人が車を降りると古民家の脇で畑仕事する男が振り向いた。
「こんにちは鬼塚さん、この間話していた下条さんです」
下条達二人も会釈で応えた。
「近所の方ですか?」
「ええ隣の者です」
「そうなんですの?」
通り過ぎてから田中は言った。
「独り者ですよ、奥さんに先立たれてね。さあ家に入ってください、もう空き家になって2年になりますが掃除しておきました」
築100年、囲炉裏の煙で真っ黒になった柱やかもい、いくの求めていた住まいである。
「お一人では広すぎますが、気に入った部屋を自由に使ってください、お風呂も改修してあります」案内された浴槽もヒノキ造りであった。
「素敵ねこんなお風呂はじめてだわ」
「田中さん夜は物騒じゃないですか?女ひとり大丈夫ですか」
下条はやはり心配だった、年増の域に入っても妻はひとりは何となく気がかりだった
「ご主人さん、隣は鬼塚さんがいますし、猟犬も飼っておられます、私の方からもお願いしておきます」
「そうですか、私も帰りにはよくお願いしておきます」
下条は一通り見るとアパートからの荷物を整理して帰る予定である。
引っ越しの車は予想より早く着いた。
手際よく運ばれると、いくは手伝ってくれた田中にお礼を述べた。
「今夜は近くのホテルに泊まります、またお世話になりますのでよろしく」
「じゃあ鬼塚さんに挨拶して帰りますか?」
田中は鬼塚の家に下条夫婦と顔を出した。
猟犬の二匹は繋がれていたが今にも飛びつこうという勢いで吠えた。
「こんにちは、鬼塚さん」
納屋から出て来た鬼塚はまだ野良着で無精ひげを蓄えていた。
「隣に引っ越してまいります下条です、とりあえず妻一人ですがよろしくお願いします」
手土産を差し出して会釈した。
「そうですか、鬼塚です」
歳で言えば還暦はとっくに過ぎているが鼻筋が通り精悍な容姿だった。
「妻のいくでございます、何かとお世話になります」
「ああ・・・質素な田舎ですが何でもご相談ください」
鬼塚はそう応じて挨拶に代えた。
「じゃあ帰りますか」
田中は時間を気にするように時計を見ながら車のドアを開けた。
車は市街の小さなホテルに向かった。
「お前大丈夫か・・あんな男が隣にいて・・・」
「心配なの・・ふふ、鬼塚さんなかなかいい男だから」
「バカ言え、嫉妬なんかしてないぞ」
田中は二人をホテルの前に降ろすと改めていくを見た。
(いい女だな、オッパイも尻もまだぷりぷりじゃねえか、50代とは思えない色っぽさだな、鬼塚のオッサン手でも出さねばいいのだが)
田中はホテルを後にした。
鬼塚重蔵という男は63である、10年前妻に先立たれて今は年金暮らしだが器用な男で今は少しばかりの畑を耕し、近所の山で猟をしている。
獣害による被害も多く、市からはイノシシやシカの駆除を依頼され年、数十頭は捕獲して駆除料を稼ぎながらジビエの販売にも手を広げている。
近所の男手のない家にはこまめに通い、余った野菜を配ったり、雪下ろしから灯油や薪運び、時には買い物まで頼まれて信頼もあるが、女には目ざとく独り身の後家さんには手を出してはヒンシュクをかうがそれでも田舎街の人気者でもあった。
夜な夜な得意の尺八や篠笛を吹いている、芸達者な一面も持っていた。
そんな鬼塚の隣に都会からの移住者で女性がひとり来るとなればたちまち評判が広がるのも無理はなかった。
ホテルで一晩過ごし、暫く台湾の会社勤めとなる夫を見送った いく は午後に新たな住まいとなる古民家に着いた。
春と言ってもまだ夕方になると冷えてくる、鬼塚の家からは薪ストーブの煙が登っていて、篠笛を吹く音色が心地よく聞こえていた。