『お気に入りの大きな黒い傘』-2
担任の先生のこういう注意のしかたは好きだった。ちょっとしたユーモア、そしてすぐ水に流す。でも多分お母さんだったらこういうのは「いいかげんだわ」と言って嫌うんだろうと思う。お母さんが多分世の中で3番目くらいに嫌っているのが「いいかげん」で、でも私は「いいかげん」を世の中で6番目くらいに愛すべきものだと思っている。お母さんの機嫌が悪い時なんかは、私がいいかげんなことをすると「お父さんに似たのね。」なんて時々言われた。でもそう言ったあとお母さんはもっと機嫌が悪くなったみたいだった。
私のいいかげんさがお父さん譲りなのだとしたら、私は将来お母さんみたいな厳格な(お母さんは進んでそう自己評価した)人と結婚して、それから子供を一人生んでから別れるのかもしれない。時々、そんなとりとめのない考えが浮かんだりした。
放課後、もう雨は土砂降りと言っていいくらいに降っていた。ザー、というノイズが全ての音を不鮮明にぼかしている。
私は玄関で靴を履き替えながら、傘たてに自分の傘を探した。大きいからすぐに見つかる。それもあの傘の利点の一つだ。私は雨が傘を打つ音を想像しながらつま先をトントンとして靴を履く。守られている感じ。あの傘をさすとそういう気分になった。
雨が強いほどその気持ちも強くなった。心のなかで小さくにやける。雨の日は好きだ。
無い。
傘が無い。今朝確かにこの傘たてに挿しておいたのに。念のため他の傘たても探してみようと思った。大丈夫、きっと見つかる。きっと私が今朝寝ぼけていていつもの場所と違うところに入れちゃったんだ。隣の傘たて、その隣の傘たて、さらにそのまた隣の傘たて、全部の傘たてを念入りに点検した。でも見つからない。
誰かが間違えて持っていったのかもしれない。それとも盗まれたのかもしれない。
雨の音が聞こえた。ザー、ザー。まるで責め立てるような響きに聞こえた。この音から何も私を守ってくれない。厳格な響き。
なんだか少し泣きそうになった。
傘がなくなったことが悲しくて。それに、この雨の中どうやって帰ろうかという現実的な問題もある。なんだか少し泣きたくなった。
誰かの傘を勝手に使ってしまおうか、なんてことも考えたけど、そんなことをしたらまた私と同じ人が出てくるだけ。想像してしまったその人の手で、そんな考えは頭の外に追いやられた。
「想像力のある人間になりなさい。」とよくお母さんは言った。
「想像力のある人間は悪いことなんてできないんだから。」
その通りだと思った。10歳の私は、小学5年生としては十分に想像力があった。そして自分にそんな想像力なんかなければいいと思った。何も考えずに勝手に人の傘を使える人間だったらよかったのにと。そんな人間がきっと今私の傘を使っているんだ。
私は途方にくれて下駄箱に寄りかかって、親しくない雨を眺めた。
「なにしてんだ。」
不機嫌そうな声に振り向いた。
青田君だった。
「なんでもないよ。」
私が言うと、青田君は、ふぅん、と言って私の前を通り過ぎた。そして傘たてをよく調べるように眺めてから自分の傘を取った。そのまま帰るんだろうと思ったけど、振り向いてまた私のほうに歩いてきた。
「これ、貸してやる。」
と、自分の傘を私に差し出した。
「え、いいよ。」
「じゃあどうやって帰るんだよ。傘ないんだろ。」
「止むの待つよ。」
「止むわけないだろ、こんなに降ってるのに。」
確かに雨脚はさっきよりも強くなっているくらいだった。
「でも、それだったら青田君の傘がなくなるよ。」
「俺は男だからいいんだよ。」
「なにそれ。」
「いいから、貸すって言うんだから受け取れって。」
青田君はそれだけ言ってから、傘を私に押し付けて、走って出て行ってしまった。「待って」と言う暇もなかった。私は、私の傘よりは少し小さい紺色の傘と一緒に、その場に取り残された。
仕方なく私はその傘をさして雨の中に歩いていった。