入院暮らしの莉亜-1
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古賀莉亜(こが・りあ)は入院中の病室の窓から外の世界の一点をしばし見つめていた。
その視線の先には地下鉄の駅が見えるのだった。
夕暮れかかった闇の中で、メトロの青い看板が電光を発している。その傍の洞窟の入り口のような穴の中へ、人が流れ降りて行き、また出てくる影もある。
毎日目にする遠景は今日も変わりなく見えた。
彼女がそんなものに興味を抱いたのは、お呪いやオカルトのサイトで、ある地下鉄にまつわる都市伝説を知ってしまったせいだ。別の可能性のパラレル・ワールドに行ったり、時間を行き来できる不思議な路線や車両が現れることがあるのだという。
ただの空想や御伽噺だと知ってはいても、憧れが消えることはなく、願望は日々に募って固定観念のようになって胸と心を苛むのだった。
(もしも別の世界に行けるなら)
莉亜は半身を起こして座っていたベッドから立ち上がり、よろめくようにして二階の窓辺からその希望を見つめていた。
パラレルワールドがあるというのならば、彼女がこんなふうではない世界も有るはずなのだ。きっと、素敵な男性から愛されて幸福になる世界だって有ることだろう。
無論、彼女自身が不治の病身では、そんな世界に行っても結末は同じなのかもしれない。けれどもそんな別の可能性を見てみたいと思うのはいけないことだろうか?
(何日かだけでも、王子様みたいな男の人に愛されてみたい!)
たとえ一時の夢ではあっても、そういう体験を出来ればどれだけ救われるかわからないだろうし、その後で自分が予定通りに死んでしまっても、その世界の別の健康な自分が愛情と関係を引き継いでくれるのならば、どれだけ慰めになるかわからないだろう。
そんな空想が馬鹿げていることくらいはわかっている。
けれども、莉亜としては頭から離れないのだ。
どのみち先天性の内臓疾患に治癒の見込みもなく、どうせ三十歳までは生きられないのだろうし、このままずっと病院に入院していたところで家族の負担にもなり、自分自身も辛くて苦しいだけなのだ。
溜め息吐いてベッドに戻り、サイドテーブルのノートパソコンを広げる。
そして件の気になり続けたサイトを開いてみる。
あの「パラレル世界への地下鉄車両」の予約サイトとやら。
(これって詐欺とかじゃないよね?)
こんなふうにして、名前や住所やクレジットカードの番号を詐取する詐欺が世の中で横行していることくらいは、いくら高校半ばで中退して入院生活を強いられていても、莉亜だって知ってはいる。
ただ変なのは、そのサイトがその手の個人情報をほとんど要求していないことなのだ。
入力する名前はHN(ハンドルネーム)で良く、メールアドレスすら記入欄がない。百五十字以内(文庫本なら四行足らず)でメッセージを書く欄と、好きな色と食べ物、それから本や映画・音楽などのアンケートがあるばかり(未記入も可)。
おそらくは物好きな誰かが作ったジョークサイトなのか、企業や作家がマーケティングでもやっているのだろうか?
変な意地を張ってしまうのは「釣られたら負けだ」と心の何処かで感じているからだ。
それにこんなことをしても、どうせ嘘サイトなんだから、あとでガッカリするのは目に見えているのに。
しかし。
やらないと気が済まない。
ここ数日は特に強迫観念のようになっていて、精神衛生上によろしくなくなっている。
(ええいっ!)
莉亜は前髪と頭をクシャクシャと掻いた。
なんとなく髪の毛の臭いがするようで、この二日間くらいお風呂に入っていないのが悔しくなる(いくら身体を拭いて貰っても、流石に髪の毛まではどうにもならない)。考えてみれば今日はお風呂の日だから、すっかりなじみになった理学療法士さんから手伝って貰って(?)身体をスッキリさせてもらえるのだ。
ひとまずその前に、とりあえず頭の中だけでもスッキリさせておきたかった。
とうとうキーボードの上でつらつらと指が動いた。
HN りおぽん
好きな動物 コアラ
好きな食べ物 ヨーグルトとホットケーキ
好きな本・話 人魚姫・高校の参考書
好きな映画・映像 Youtubeの動物動画
好きな音楽 テクノっぽい硬派(亡くなったオリガさんとか)
メッセージ(魂を叫べ!)
「サイト運営者さん、乙です! 私は動物のレオポンではなく「りおぽん」です。病院暮らしで死んじゃうけど、最高の彼に愛されてハネムーンのオーストラリアの荒野とかで二人きり(エアーズロック)星空で開放的にイチャイチャしたい。でもこう書くと運営者さんは絶対エッチなこと想像したでしょ?」
入力完了ボタンを押し、ふっと吐息する。
それから少し痩せてしまったように思う脇腹を撫でて、少し哀しい気分になる。
世間一般の女性の間では痩せてスリムなのが目標とされるけれども、自分の痩せ方が健康的ではないと思っている。それに世の男性は案外にグラマラスで色情的な体型を好むらしいことも知っているし、仮に願望が叶ったとしても、ガッカリされそうな気がした。
病院食はヘルシーで特別に不味いわけでもないが、如何せん病人用に考えられた献立という決定的な事情がある。だからあまり極端に油っぽかったりだとか、刺激が強すぎたりだとか、消化の負担になりすぎるようなメニューは避けられる。
莉亜としては特に油モノや激辛の類が好きなわけではないけれども、それでも一抹の物足りなさがあるのは否めない。そして本当に一番哀しいのは、自分がそういった食べ物を食べたところで、常に健康な人のようには味わえないだろうということなのだった。