青い薔薇-5
窓の外を淡い月の光が沈鬱に澱ませている。見えない海の波音が遠くから聞こえてくる。
ぼくは、夢の中であの人に去勢されたのかもしれない。そう思いながら夢の記憶を甦らせる。あの人は、後ろ手に革枷をされたぼくを満足そうに抱き寄せる。彼女の顔が頬に近づき、唇がぼくの首筋に触れた。ぼくはベッドに押し倒され、彼女の唇がぼくの白い胸肌をなぞった。あの人の身体はとてもふくよかだった。彼女の火照った肌がぼくの肌を貪り、香りを含んだ互いの体液が絡み、混じり合ったミルク色の匂いが立ち込めた。
あの人の掌がぼくの背中に窪みを抱きとめ、ぼくのからだを抱きしめる。彼女の薄紅色の唇がぼくの唇に重なる。あの人の舌を受け入れた瞬間、ぼくのからだが甘く溶けていくような錯覚にとらわれる。口の中に彼女の吐息が運んできた香りがひろがる。ぼくの中のときめきが、一瞬、癒されるように溢れ出る唾液を咽喉の奥深く呑み込む。あの人は、ぼくの体を抱きしめながら首筋から胸へと唇を這わせていく。そしてぼくのふくらんだ乳首を舌で弄り、甘噛みするように唇に含んだ。あの人の歯によって肉体の一部がもぎとれられる甘い感覚がじわりとからだの隅々に拡がっていく。
やがてあの人の唇は、ぼくの下半身へと這い下がっていく。彼女の唇がペニスに触れる。舌が肉幹をなぞるほどに、ぼくの体がしなり、熱を含んだ喘ぎ声が唇の端から瑞々しく洩れていく。熟成した脂肪の光沢が滲み、どんな小さな窪みにも体液を澱ませたあの人の体がゆれ、彼女の唇がぼくのものをすっぽりと包み込む。あの人はぼくを吞み込み、ぼくはあの人を受け入れていく。吸われ、溶かされるぼくのペニスのさえずり。それは止めどなく流れる音楽であり、果ての見えない蒼穹に舞い上がるような感覚………。
ぼくはこの部屋でずいぶん長いことあの人の夢を見続けていた。夢の中をさまよいながら青い薔薇の呪縛に身をゆだね、あの人に去勢されたぼくの中の空洞を感じ続けている。あの人にぼくの性器が奪われ、吸い取られ、もぎとられる快楽と苦痛は、ぼくにとって最愛の至福のひとときだったのかもしれない。
冷ややかな空気がぼくの中の空洞を抜けていき、ぼくのイデアが透明な、無残な液体となってその穴から溶けだしている。ああ、あの人にもっと痛めつけられたい………あの人に気絶するほど鞭を打たれ、ぼくの無残な穴を穿たれたい。そうされることでぼくという純潔のイデアをふたたび取り戻し、白骨化した忌々しい肉体にとどめをさして欲しい。そのためにぼくは夢の中でヴァイオリンを弾くのだから。
今夜も、ぼくは夢を見ながらあの人を待っている。夏の夜が更け、月の光が青い薔薇の花びらに散りばめられている。花びらの水滴が乾き、いつのまにか萎みかけている。とても長い時間がたっているのに、あの人がここにやって来る気配はない。ぼくはすでに深い失望と眩暈を感じ、焦燥に悶えかけている。
やっぱりあの人には恋人がいたのだ。ぼくはそのことを知ってしまった。ほんとうに偶然だった。黄昏のビルの谷間の薄暗い場所で、あの人は背の高い端正な顔をした男と長い接吻を交わし、彼のたくましい腕で腰を抱かれ、路地裏のホテルの中に消えていった。
ぼくは茫然としてその場に立ちつくした。ぼくは残酷にあの人に否定された。そのときからぼくは、じわりじわりと押し寄せてくる孤独に追いつめられながら不条理な息苦しさの中でもがき始めた。ぼくはあの人がやって来ることのない部屋をぐるぐる歩き回った。触れたヴァイオリンの弦から発せられた音が青い薔薇の花びらを微かにふるわせる。ぼくは聞きたくない。あの人が恋人の男の腕の中で洩らす吐息と体液が滲み出る音を。男に奪われたあの人の肉体は、まるでぼくを嘲笑うような旋律を奏で、ぼくを突き放し、捨て去る。
ああ、聞こえてくる。どんなに耳をふさいでも、あの人の愛しい肉体が男と交わる残酷な音が。ぼくにあの人の肉体の忘却を迫る音が。ノスタルジアに霞んだ青い薔薇に染まったあの人の嗚咽が。男に鷲づかみにされたあの人の白い乳房、男のもので穿たれた肉襞から滴る蜜液。あの人の爪が男の背中に立ち、絡みあう肉肌が擦れ、互いにまとわりつく腰のうねり。ぼくを嫉妬という奈落の底に突き落すあの人の悦びに充ちた恍惚とした喘ぎ。