隠し部屋-2
2.
吉兵衛は丁稚奉公から始め、懸命に働いてやがて番頭となり、のれん分けを受けて小さな店を持ち、それを一代でそこそこの大店まで広げた男。
妻帯はしていない、店を持って間もなく女房を迎えたが、最初の子を産む時に酷い難産の末に母子ともども亡くしてしまったのだ、その後も後添えの話はすべて断っている、自分の店を持ち、妻を娶り子をなす、その幸せの絶頂となるべき瞬間に奈落の底へと突き落されたのだ、その心の傷は容易に癒えるものではなく、亡くした者たちに心を残したまま後添えを迎える気にもなれない、吉兵衛はそれを忘れようと一心不乱に商売に撃ち込んだ、その結果が今の店なのだ。
これから店を大きくして行こうと言う頃、吉兵衛は得意先の接待でこの楼を贔屓にした。
商売が大きくなるにつれて接待には大見世を使うようになったが、それからも中見世の濱風楼にちょくちょく顔を出してくれていた、接待はともかく自分自身の遊びならばその方が気が張らず好きらしい、それでいて金払いは綺麗だから楼としてもありがたい客だ。
そして、馴染みの遊女から聞くところによると、吉兵衛は齢五十二してまだまだ涸れちゃいないらしい、他の年配客のように遊女と差し向かいで酒を飲み、話をするのが主で、床に入れば一回射精(だ)したら終わりと言うような調子ではなく、なかなか寝かせてはくれないのだと言う、精力の方は低く見積もっても三十代の男に劣らず、持ちモノの方もかなり立派らしい。
だが『しつこい客』と嫌われているわけではない、むしろその逆で『吉兵衛さんなら喜んで出たい』と言う遊女も少なくない、女を喜ばせる術を心得ているだけでなく、妙に間夫ぶったりせずに遊女と共に一夜を楽しむ術も心得ているのだ。
ただ『ここんとこお見限り』だった理由ももっともなこと。
吉兵衛の馴染みだった遊女の佳の川が新宿に宿替えになっていたのだ。
お上公認の吉原は遊郭の中でも別格、少し歳が行って客の付きが悪くなった佳の川はお払い箱となり、かと言って証文を破ることも出来ず、岡場所の新宿へ流されたのだ。
吉兵衛も何度かは新宿へ足を運んだやも知れないが、如何せん新宿は遠い、今だに精力を持て余してはいるがはるばる新宿まで通うほどの体力も暇もない吉兵衛は久しぶりにこの楼へと足を運んだのだろう。
だとすると、吉兵衛の新たな馴染みとなり得るような遊女をあてがわないことには、せっかく舞い戻って来た上客を失うことになりかねない。
「どんな娘がお望みでしょうね?」
「そうだな……お駒に任せるよ」
「さいですか?……」
佳の川は器量こそ十人並みで少しばかり歳も行き過ぎていたが、話し上手で如才なく女っぷりも良かった上に床上手でもあった……佳の川に匹敵するような遊女はちょっと見当たらない、ならばむしろ思い切り若い方が良いのかも……。
そこまで来て、ふと思いついた。
(吉兵衛さんなら良いかも……)
実のところ、この楼には隠し部屋がある。
表から見れば二階建て、だが、二階廊下の突き当り、行燈部屋の中には隠し戸があって、小屋裏へと続く梯子が隠してあるのだ。
小屋裏と言ってもきちんと座敷にしつらえてある。
表向き、正式に遊女となるのは月の物を見てからしかるべき上客に水揚げを頼んで『女』にしてもらう必要がある、しかし江戸中期以降はそんなしきたりも徐々に崩れ、十五〜六の新造の内から客を取らせることも多くなっている。
この楼にもそんな新造は何人もいる、それどころか……。
「とびっきり若い娘はいかがでしょうね?」
お駒は吉兵衛にそう囁きかけた。
「ほう……とびっきり、ね」
「はい、とびっきりですよ、びっくりするくらいの」
「それも悪くないかも知れないな」
言葉は『悪くない』だが、その表情を見れば思いのほか乗り気のようだ、ならば……。
「ちょっとお耳を拝借……これは内緒ですけどね、この楼(うち)には隠し部屋があるんですよ」
「隠し部屋? なにやら秘密めいてるな」
「まぁ、吉原の法からすると御法度なもので」
「なるほど……面白そうだな」
「少ぅしばかりお高ぅございますが……一両頂きたいんですけどよろしゅうございますか?」
「ああ、構わないよ」
「では、ご案内しましょう」
「ああ、そうしておくれ」
吉兵衛がそれを気に入るかどうかは正直なところわからない、だが、自分を『特別な客』と見なしてくれたことには満足しているようだ、趣向が気に入らなかったとしてももう来ないということにはならないだろう、逆に元々はそんな趣味がなかった客でも隠し部屋での遊びを一度経験すると病みつきになる客も少なくない、上手くいけば吉兵衛と言う上客をがっちりと掴める。
「どうぞ、ご案内します」
お駒は吉兵衛を案内して大階段を登って行った。