蜜戯-7
青い空の色を薄めるような雲がなびいている。いつのまにか夏が終わろうとしていたが、彼との蜜月の日々は終わることはなかった。
なぜ、葡萄(ぶどう)なのかわからなかった。その日、いつものようにお風呂を終えたわたしは裸のまま彼と肩を並べるように居間のソファに座った。わたしは彼の前で自分だけが全裸であることの恥ずかしさをすでに忘れていた。
その日の彼の様子が少し違っていたことに気がつくのに時間はかからなかった。いつもの礼儀正しさと慎ましさが薄膜のように透けて見え、そのかわりに色濃く塗り込められた男の匂いが酷薄に放たれていた。
彼はわたしの裸の肩を抱き寄せた。互いの顔が近くなった。頬と頬のわずかな透き間で音もなく空気が滑りおちていく。それはわたしと彼とのあいだに濃い危うさを漂わせた。わたしはそんな自分を彼の視線から逸(そ)らすように、テーブルに置かれたガラスの器の葡萄を見て言った。
「こんな大きな葡萄は、ひとくちでは食べられないわね」
ひと房の葡萄は、ひとつひとつの実がとても大きく、赤味の濃いとても美味しそうなものだった。
「皮まで食べられる葡萄です。とても美味しいですよ。大丈夫です、ぼくが食べさせてあげます。でも、条件があります」と彼は言った。
「条件ってどういうことかしら」
彼はおもむろに立ち上がると、クロゼットに掛かっていたガウンの細い腰紐を手に取り、わたしの腕を後ろ手にして背中で交差させた手首をくくった。
「ミヅヨさんが、手を使わないことが条件です」と彼は微笑みながら、とても愛おしくなるような意地悪さを頬に浮かばせて言った。
彼に後ろ手に縛られると、無防備にされる心地よさが体の隅々を縫うように伝わっていく。彼とわたしがもっと近くなったような気がした。そんな経験は、わたしの長い生活でもなかった。いや、どちらかというと五歳年下の亡くなった夫にそんな自分をあらわに晒すことさえなかった。わたしのほんとうの顔、ほんとう息づかい、そしてほんとうの心と体の甘美な心地よさ……それは夫とのわたしのあいだの、けっして濃くならない互いの欲望の希薄さにあったのだと今でも思っている。
無防備な肉体を彼にゆだねる欲望は、心地よく、懐かしくわたしの心と体を擽(くすぐ)る。彼でなければきっとこんな気持ちにはならなかったかもしれない。後ろ手に縛られたわたしは、彼にもっと裸にされ、わたしが忘れ去った自分を知り、わたし自身を甦らせることができるような気さえした。
彼は葡萄をナイフで半分に器用に切った。葡萄の果汁で彼の美しい指先が濡れ、細かく砕いた真珠をまぶしたようにきらきらと甘く煌めいていた。わたしはその指がとても欲しくなる。
彼は葡萄の実を摘まむと、唇を開かせたわたしの口にゆっくりと含ませる。まるで病人をいたわるような優しい指使いだった。
彼の指先の体温をまぶした葡萄が薄く開いたわたしの唇に触れる。ひとつになった彼の指と葡萄を誘い入れるようにわたしは唇をすぼめる。放たれた葡萄が舌の上を転がり、甘い汁が口の中に拡がる。
彼が含ませてくれた数粒の葡萄を口にしながら、噛みしめる葡萄はいつのまにかわたしの口の中で彼の指になっていた。唾液がはじけ、甘噛みするように歯が蠢き、葡萄の汁が染み込んだ彼の指をわたしは、まるで赤子が母親の乳首を求めるように夢中でしゃぶり続けた。彼はそんなわたしの肩を抱きながら、その姿をじっと見ていた。
唇のあいだに葡萄を含ませる彼の指は、やがて見たこともない彼のペニスのようにさえ感じられ、わたしは身体の中に微かな火照りを感じた。肉奥に眠り続けていた自分の中の女が疼きはじめ、それは血流となって肉体の隅々を生き返らせるようだった。
不意に歯で噛んだ葡萄の皮がはじけ、唇の端から赤い汁が胸元に滴り、萎んだ乳首に絡み、蒼白い光を溜めた乳房に赤い筋を描いていった。
「ごめんなさい、せっかくお風呂できれいにしてもらった肌に葡萄の汁がこぼれてしまったわ」と言いかけたとき、彼はにっこり笑って言った。
「どうして、欲しいのです」
それはあらかじめ用意された彼の悪戯な言葉であり、わたしもまた用意していた厭らしい言葉を声にした。
わたしは彼の顔をじっと見つめて言った。「あなたの舌で、わたしの肌をきれいにして欲しいわ……」
彼はその言葉を予感していたようにわたしの胸に顔をゆだねるように近づけると、滴った赤い葡萄の赤い汁の筋をたどるように息を吹きかけた。
淡い光の中で彼の唇がわたしの肌に押しつけられた。唇はわたしの胸の中に何かを語り掛けるように触れてきた。脆い乳肉のゆがみに舌が戯れるように這う微かな音が響く。唇が甘く吸いつき、愛おしく押し離される肌の心地よさが骨まで染み入り、やがて疼きから快感へと濃さをふくらませる。滴った葡萄の赤い筋は、まるで肌に滲み出たわたしの体液のように彼に吸い取られていった。