蜜戯-4
ある日、彼が不意に言った。
「ご主人は、どんな方だったのですか……」彼は、わたしのベッドのシーツを替えながら、何かもどかしさを含んだように言った。
彼の言葉にわたしは返す言葉を用意していなかった。少なくともわたしは、夫を夫として、夫を男として、意識することの意味を夫が亡くなった十五年前から失っていた。夫が亡くなったときから、夫と連れ添って生きてきた自分の過去の記憶がどこにも見あたらなかった。何よりも夫とどんなふうに知りあい、どんなお付き合いをして結婚し、どんな生活をしてきたのか……なぜか夫との記憶だけが喪失していた。
以前、医者から軽い記憶喪失でしょうと言われたことがあった。診察室を出たとき、扉の中から医者と看護師の会話の中に認知症という言葉が聞こえた。わたしは心の中で苦笑した。そんな歳でもなく、自分が認知症などという意識はもちろんわたしにはなかった。
五歳年下の夫とのあいだに子供はできず、ずっとふたり暮らしだった。夫はきわめて真面目な人間だった。浮気などと言う言葉とは無縁だった。
振り返ってみれば、そんな夫に不満がなかったということよりも夫婦であることに意味を見出せなかった。いつからそうだったのかもわからない。なぜ、わたしが彼の妻なのか、自分は夫をどうして愛するようになったのか、いや、どう愛されたかったのか、巡らせる思いに答えはなかった。唯一、記憶にある出来事は、十五年前、病院で昏睡状態にあった夫に、初めて他の女の気配を意識したことだった。
あのとき、わたしは夫の書斎にある書棚から偶然、古い手帳を見つけた。手帳の中には一枚の色褪せた写真が挟まれていた。そこには若い男と女がいっしょに写っていた。女の手には鞭が握り締められていた。若い男は女に媚びるように潤んだ眼をして彼女の足元に全裸で跪いていた。後ろ手に拘束されているのか、無防備な拘束を感じさせる身体をねじった男の首には金属の首輪が嵌められていた。性器はまるで鞭で打たれることを欲し、喘ぐようにそそり立っていた。
わたしはその写真に喰い入るように視線を注いだ。写真の中の若い男の顔……夫の顔であるような気がするのに、そうでないような顔……。
おそらく夫とわたしが結婚する以前の写真のような気がした。女の背後から写された写真では女の顔はわからなかった。長い髪を伸ばした、黒い下着姿の背中の翳りとくびれた腰、そしてすらりと伸びた脚が写っていた。顔の見えない女の身体の輪郭はわたしが遠い昔に失った若さそのものをあらわにしていた。
男が、いや、夫がその女とどんなことをしていたのか……わたしの中の夫の像が、まるで靄に包まれるようにすっと溶けていった。
病院のベッドで眠り続ける夫の顔が、写真の中の遠い過去の女の気配をさせまいとすればするほど、わたしはそこに見える女の影に敏感になった。初めて感じた嫉妬だった。夫が欲望した女が《そういう女》でなければならなかったことにわたしは自分が裏切られたような思いだった。そして自分がどんどん夫の記憶の底にある女の気配に縛られ、嫉妬に苛まれ続けたのだった。
あのとき、わたしは昏睡状態にあった夫の寝具を脱がせ、彼のペニスを眺め続けた。何の感情もいだかせない萎えきった皺だらけの小さなペニスを手に取り、弄りまわし、擦り上げ。握り締めた。いつのまにこんなに小さくなったのか、夫のペニスはわたしの掌に包まれるくらい小さく萎縮し、干涸びた睾丸はわたしの指のあいだを逃げるようにすり抜け、まるでわたしを忘れ去り、わたしを拒絶しているかのようにさえ見えた。
わたしの身体の奥に記憶のないペニスだった。夫との最後の交わりがいつだったのかさえ憶えていない。わたしは夫にどんなふうに抱かれ、夫はわたしをどんなふうに抱いたのか、わたしたちはどんな思いを絡ませ、どんな性愛の形と時間をすごしてきたのか……彼のペニスはわたしの失った記憶を嘲笑うように沈黙したままだった。それはわたしを拒んでいるような、いや、そもそもわたしが夫の性の対象として存在していないようにわたしを無視していた。
ペニスの先端からわたしに問う声が聞こえてきたような気がした……あなたはいったい誰なのですと。握り締めた夫の柔らかすぎるペニスは、わたしの存在を否定し、今にも溶けてしまいそうだった。
たとえ顔のわからない女であろうと、写真の中の女は、夫の妻として生きてきたわたしのすべての過去を奪っているような気がした。女に鞭で打たれ、女が与える苦痛に悦びの嗚咽を洩らしている夫の姿。それはわたしが夫の妻として、女として、わたしと夫の関係のすべて否定していた。