キャンサーの女 母性の章-1
『カミノキ』と白抜きされた紺の暖簾をくぐりガラッと引き戸を開けると優しいだしの香りが漂った。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
白木のカウンターに座ると白い割烹着を着た女将の蟹江優香が水を運んできた。
「緋月さん、いらっしゃい」
黒い髪を一つにまとめ、たれ目がちな黒い目が昔の母親を思わせ安心させる。こういう印象の女性ではあるが実際はまだ三十代前半で僕よりも一回り以上年下だ。
「えっと。とりあえず牛筋の煮込みと生中もらえるかな」
「はあい」
こじんまりとしているこの小料理屋は元々彼女の母親が始めたものらしい。昔の厳めしいつくりのテーブルが年季と味わいを感じさせる。
「どうぞ」
熱々の煮込みとよく冷えたビールが届く。そしてもう一つ野菜の煮しめが入った小鉢が置かれた。
「お野菜も食べないとだめですよ」
「え、ああ。ありがとうございます」
本当に母親のような振る舞いに少し照れ臭くなったが有り難く頂戴した。この店を知ってから毎週一度は通い顔なじみになった。僕は料理はまあまあ好きな方で自分でもよく作るがこの女将の料理は心まで温める。特に何か会話があるわけではないが軽く食事をし安らぎほっとして家路につくのがここ半年ほどの日課になっている。
「ごちそうさま」
「もうお帰りですか」
「また来ます」
身も心も温もりに包まれて店を後にした。
半月ぶりに凍える手で『カミノキ』の引き戸を開けた。
「あら、緋月さん、しばらくお顔拝見してませんでしたね」
女将の優香は優しく声を掛けてき、僕をカウンターに促した。
「久しぶり。ちょっと忙しくてね。まだやってる?」
店内の座敷席もテーブル席も静かだ。
「さっきまで一組いたんですけど、このいきなりの冷え込みのせいかしらね。雪になるかもしれないって、さっきのお客さんも早めに切り上げちゃったの。もう仕舞おうかなと思ってたところなの」
「ああ、そう。じゃあ、今夜はよすよ」
「いえ、そんなつもりじゃ。緋月さんがいてくださるなら朝まで開けてますよ」
僕は笑って椅子に座りなおした。
「腹は減ってないんだ。熱燗つけてください」
「はい。すぐにお持ちしますね」
がらんとしているが店の雰囲気で温かい気がする。ぼんやりとかじかんだ手をこすり合わせていると優香が粉引きの白っぽい徳利とぐい飲みを運んできた。
「どうぞ」
白く滑らかな手で酌をしてくれる。
「ありがとう。女将さんもどう?一緒に飲まない?」
「そうねえ。いただこうかな」
隣に彼女がふわりと座った。近くで見ると肌はまだ若く張りもあるようだ。鼻先は丸くあどけなくさえ見える。案外童顔なのかもしれない。
「この店ってもう何年?」
「うーん。私が始めてからは五年だけど母からだと三十年になるかしら」
「年季が入ったいい店構えだよね」
「ええ。母がとても大事にしてきた店です」
懐かしそうに目を細める優香をぼんやり眺めていると、ハッとするように彼女は徳利を手に持ち酌をする。
「緋月さん、なんだか痩せました?元気がないように見えますよ」
僕は見透かされるような彼女の黒い瞳から目を逸らしてぐい飲みの酒をあおった。
「先々週に母が死んだんだ」
「え……」
「ああ、辛くならないで。母は兄夫婦のところで最後まで楽しく過ごしてたし、元々身体の弱い人だったんだけど、良く生きたんだ」
「そう……」
「まあ、そりゃ僕は覚悟してたとはいえ……なんだかね。ずっと独身でふらふらしてきたから母には心配かけてたろうなと」
優しく見つめながら優香はゆっくり頷いて僕の話を聞いている。
「あの……親孝行じゃなかったんだよね」
ふうっと胸のつかえを息と吐き出すように声に出した。酒を注ぎながら優香は言う。
「緋月さんが元気で自分の道を進んでいるだけできっとお母さまは満足なさってると思いますよ」
「そうかな……?」
「ええ。きっとそう」
呟きながら優香が寂しげな眼をして立ち上がり酒をツケに行った。ぐい飲みに入っている酒にはしょぼくれた中年男が映っている。流石に母の死はダメージが大きく、先週はなんとか仕事をこなしたが家に一人でいるといつもの気楽さよりも寂しさが勝ってしまい酒に逃げていた。
カウンターから座敷へ移りまた二人で酒盛りを始めた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「今日はいっぱい飲みましょうよ」
「ん。ありがとう。まあほどほどにします。ごめんね。自分がこんなにマザコンだと思わなかったんだ」
「男の人は基本マザコンですよ。私だってマザコンです。母が大好きでこの店継いだんですもの」
「そうなんだ」
「ええ。ここやる前は私、保育士の仕事してたんです。でも母が店を閉めるって言い始めて。もう歳だし無理なのは分かってたからしょうがないんだけど、母も母の店も失うのかと思うと気が気じゃなくなって……。無理やり継いだんですよ。母が反対してたのに」
「お母さん、嬉しかったんじゃなくて反対だったの?」
「母は店よりも私が好きな仕事を続けてほしかったみたいで。だから緋月さんのお母様は安心してあちらに逝かれたと思いますよ」
優香は顔を天井に向け和紙でできた丸い照明を虚ろに見つめた。
「そうなんだね。僕たち逆みたいだけど気持ちは同じなんだろうね」
母の最期の言葉を思い出す。『あなたらしく生きてね』――母は自分らしく生きたのだろうか……。
占い師としての自分のスキルを母に対しては活かしていなかった。母は永遠に自分の母で自分を包む存在なのだと当たり前のように甘えてきてしまい、細く小さくなった彼女は思い出の中の母とは違っていた。