『北鎌倉の春』-2
あの日はちょうど蝉が鳴きだしていた時で、この駅から東京に帰る頃はもう、毎日蝉がわんわんと鳴いていた時だった。
…晩夏の別れは切なかった。
久人とも夏とも、別れなければならなくて。
とりあえず何日か分の服と必需品を放り込んだバッグを、肩にしょい直す。
今はすっかり、春風が吹いて。
桜もそろそろ咲き出している。
止めていた足を、またゆっくり踏み出した。
行き先は、もう決まっている。
歩いて歩いて…あたしはあの笑顔のもとへひたすら足を進める。
フワ…と風が流れて、桜が揺れた。
そしてその中で、あたしは久人を見つけた。
何だか涙が出てきそうだった。
自宅の縁側で、静かに本を読むその姿が、あの夏の日々をまた思い出させる。
どうしてこんなにも、綺麗なんだろう。
どうしてこんなにも、愛しいんだろう。
永遠とも思われる間、彼を見つめていた。
そして久人はあたしに気付いて、顔を上げる。
…一瞬の、沈黙。
「瑞穂…。」
そして、心地良い声で呼ばれる、あたしの名前。
この声で呼ばれるあたしの名前が、1番好きだと思った。
「…戻ってきちゃった。」
「……お帰り。」
あたしはどうしていいか分からなかった。
いざ会ってみると、何から言えばいいのか。
習いたての外国語のように、その訳し方が分からない。
だから、縁側から降りて来た久人に抱き着いてしまう事しか、出来なかった。
案の定少し驚いていた久人が、少ししてその手をあたしの背中に回してくれた事が、すごく嬉しくて安心して…。
「瑞穂、本当に戻って来た…。」
「そう言ったでしょ?疑ってたの?」
久人の手の力が、強くなる。