形姿(なりすがた)-1
自分がSだと言ったのは、ご主人に会ったときが初めてだった。でも、ほんとうに自分がSなのかはわからない。だからと言って、自分はエムです……なんて、なぜかご主人には言えなかった。一番こわいと思うのは、そのどちらでもないことだった。それはずっとわたしが思ってきたことだった。もしそうだとしたら、わたしは《かたち》のないつまらない女に自分が思えた。ただ、ご主人対してそんな気持ちが曖昧であっても、おそらくその感情は、わたしがご主人を好きだという気持ちであることには、まちがいなかったような気がする……。
わたしは彼に初めて会ったときから、ずっとご主人と呼んでいる。彼がどこかの老舗のお店の店主というわけでもなく、かといって彼に妻がいるのかどうかさえ知らない。彼を《ご主人》と呼んだわたしの日本語がおかしかったのか、彼は自分に声をかけられたことに気がつかなかった。そもそも名前も知らない中年の男性をどう呼べばいいのかわからなかったから、ついそう呼んでしまった。それ以来、彼をご主人と呼んでいる。
年齢は六十歳半ばくらいに見えるが、ご主人の正確な年齢は知らない。白髪をいつもきれいに整え、黒曜石のループタイをした中肉中背の彼は、いつも紺色のポロシャツと地味なグレーの上着を身につけていた。端正ですっきりした顔をしているのに、どこかしっとりとした安心感があり、蒼い瞳はどこかつかみどころがなく、わたしは気がついたら、ご主人の瞳に抱かれているような錯覚さえいだいた。おそらく、四十歳になったわたしが自分の記憶をどれだけたどっても、これまで会ったことのないタイプの男性だった。
ご主人は、公園通りの喫茶店のいつも決まった席で珈琲を飲みながら本を読んでいるときもあるが、ときに目を閉じ、店に流れるクラシック音楽に聞き入っていることもあった。テーブルに置かれた分厚い本は、わたしの知らない外国語で書かれてあり、店主の老婦は、ご主人がどこかの大学の教授だと言ったが、彼の雰囲気からして、キョウジュと呼ぶにはピンとくるものはなかった。
「あなたは、まるでぼくの妻に言っているように、ぼくを呼ぶのですね」
彼は笑いながら自分が独身だと言った。
ご主人とどんな他愛のない話をしているときでも、彼の気配はこれまでわたしが男に晒さすことのなかった部分に入り込み、わたしのからだの中をじっと覗いているような気がした。とても愛おしく、従順に。その澄んだ物憂さは、なぜかわたしの心の中をくすぐった。
男として強く迫ってくるものはなく、どちらかというとこういう男性はイジメてみたいタイプの男性かもしれない。だからわたしが、ご主人に、自分はSだと答えたのは自然だったかもしれない。
「ほんとうはエムだとしても、Sだと言う女性は多いものです」
わたしたち以外に客のいない店で、ご主人の席とひとつ席をはさんでカウンターに座ったわたしに彼はそう言った。
「ご主人は、Sなんですか、それともエムかしら」
尋ねた相手がSだと、わたしは自分に中にエムを感じ、その逆になるときもある。でも、ご主人の答えは、限りなく曖昧だった。
「あなたが望んだとおりの男だったら、ぼくはとても幸せになれるかもしれない」
わたしはしばらく黙り込んでしまい、ご主人はじっと目を閉じて音楽に聞き入っている。わたしを意識しているのに、意識していないふりをして。わたしは、そんなご主人を敏感に感じ取っていた。
いつもの革張りのスーツケースがご主人の足元にある。使い込まれているのか、角のあちこちが擦り切れている。軽いのか、重いのかさえわからない。わたしの前でそのスーツケースを開いたことはない。何が入っているのか聞いてみたいといつも思っているが、なぜか怖くて聞けない。いや、怖いというより期待外れだったら、きっとわたしはご主人にげんめつするかもしれない。なぜなら、わたしはケースの中に縄や鞭が入っていることを微かに期待しているのだから。そしてそれをご主人がどんな風に使うのか思いをめぐらせている自分がある。
わたしはSの経験も、エムの経験もある。どちらが自分にしっくりあっているかいうとよくわからない。相手をイジメたい欲望と、イジメられたい欲望。ご主人はSか、エムか……つい、そんな思いに耽ってしまう。じゃ、わたしはいったいどちらをご主人に望んでいるのだろう。おそらくわたしは、ご主人のかたちがわからない限り、自分のかたちもわからないような気がした。