形姿(なりすがた)-11
…………
ご主人がローマに発つ夜、わたしたちは空港の中の喫茶店にいた。
大きな窓の外には、離発着する飛行機の点滅する光が夜の闇に散りばめられている。ご主人の傍には大きなキャリーバッグといつものスーツケースが置かれている。
ご主人がローマの大学で教鞭をとることになったことを聞いたのは、あの夜だった。あのとき、ご主人はわたしを抱くこともなく、もちろんスーツケースを開けてくれることはなかった。
「三年くらいしたら、また日本に戻ってくるつもりですが、よくわかりません」
ご主人はいつもと違って神妙な顔をして言った。
「こちらに、もう戻ってくることはないということですか」とわたしが言うと、彼は困ったような笑みを浮かべた。
空港のアナウンスが、わたしとご主人のあいだに漂う空気を少しずつ裂いていくようだった。わたしはご主人から離れたくなかった。わたしがご主人のものでありたいという願いがかなえられるなら、それは彼の足元にあるスーツケースにつまっているような気がした。
「見せていただけませんか、スーツケースの中を……」
ご主人はわたしの言葉を予期していたように静かにうなずいた。
テーブルの上で、スーツケースがゆっくりと開けられた。その瞬間、目に飛び込んできたのは、小さな布袋だった。それ以外に何も入ってはいなかった。ただ、小さな布袋を入れるためだけのスーツケースだった。わたしを痛めつける鞭や縄など、やはりわたしの空想にすぎなかった。
ご主人は、ゆっくりと布袋の口を開く。そして、袋の中から取り出されたものを見たとき、わたしは息がとまりそうだった。
あの小さな陶器の小壺だった。亡くなる直前、母の枕元に置いた、わたしが初めて作ったあの小壺……。そして、蓋を開けると中に入っていたものは細かい砂のような白い粒だった。
「星砂みたいにきれいでしょう。これは人の骨を細かく砕いたものです」
えっ、わたしは驚いて喰い入るように器の中を見つめた。
「ぼくが一番、愛した女性の骨です……」ご主人はわたしをじっと見つめて言った。
何も入れるものがないと思っていた小壺には、わたしの知らないことが、いつのまにかたくさん詰まっているような気がした。
「誰の骨だか、あなたにはわかっていますね……」
ご主人はわたしの顔をじっと見ながら言った。
わたしは返す言葉を持っていなかった。まわりの音がすべてかき消され、わたしの胸の奥から心臓の音だけが小刻みに響き、瞳の中がしっとりと潤んできた。
人は、かたちにないものを、かたちの風景として、どれほど大切にできるものでしょうか……。
それが、わたしに告げられた、ご主人の最後の言葉だった。