形姿(なりすがた)-10
わたしたちは港が見える公園にたどり着いていた。夜の風景の先は見えないのに、ご主人の姿だけがわたしの瞳の中に浮かんでいた。ご主人の背中がとても愛おしく感じられた。
「ぼくもまた、何かのかたちを追い求めているのかもしれません」
「それって、亡くなったご主人の恋人のことですか」とわたしはご主人の背中に向って言った。
月灯りに照らされたご主人の背中は何も応えなかった。いや、何も語らないのに、その背中はご主人の過去の痛み、哀しみ、寛容さ、愛おしさ、感謝、そして赦しという、かたちのない影に充たされていたような気がした。
わたしはいつのまにかご主人に背中に顔を埋めていた。微かに涙が頬を濡らしていた。幼い頃の遠い父親の背中を感じたような気がした。
ご主人はゆっくりと振り向き、わたしの頬を優しく掌で包んだ。そしてわたしの視界からすべてをかき消すように唇が重ねられた。
ホテルの部屋の窓を開けると、すずしげな夜気が漂ってくる。すぐ目の前の港から、船の汽笛がベッドの中のわたしとご主人の気配を撫でるようにゆったりと聞こえてくる。
触れあった肌の体温を感じるだけの時間が過ぎていった。ご主人は、わたしを抱こうとしなかった。そんな行為はどこにも始まる気配はなかった。やっぱりご主人はフノウなのだろうかと思った。それでもご主人は、何かを懐かしむようにわたしの髪を撫で、胸に触れた。その手は、あのときわたしが作った陶器を撫でた手と同じだった。かたちに触れているのに、かたちに触れていない手。まるでふれてはいけないものに触れるように這いまわる手。とてもあたたかで、やさしく、それなのに何かをこらえているように禁欲的で敬虔で、愛おしさにあふれている手。いつのまにか火照りを含んだわたしのからだは、もう後もどりできないほどご主人の手に掻きたてられ、今にも雫となって滴るほどしっとり湿っていた。
月の光が、ご主人の横顔をうっすらと浮かび上がらせている。わたしは毛布の中でご主人の胸に顔を埋めたまま下腹に手を這わせ、ペニスに触れた。なめらかな手触りだった。ペニスの幹にご主人の体温を含んだ微かな血流を感じた。ご主人もまた、わたしの手を感じているはずなのに顔色ひとつ変えることなく、窓の外に静かな視線を向けている。
触れている指と掌の感触だけで、ご主人のペニスの輪郭が脳裏に浮かんでくる。掌の中で珠玉がすべり、柔らかくも堅くもない肉幹は呼吸を始めるようにふくらみかけている。
わたしはご主人のかたちをふと感じてしまう。つかみどころがないのに、どこか凛として、優しく、ほんのりとして、おおらかだった。それはわたしが含んだタダオのものでもなく、ハイヒールで踏みにじった歯科医のサワダのものとも違っていた。ご主人のかたちがわたしの中で光の粒のようにきらめき、かたちのかたまりになってわたしを包み込む。
ご主人がわたしの肩を抱き寄せた。わたしはご主人のペニスを握りしめたままご主人の胸に頬を強く押しつけると、胸元から甘い匂いが漂ってくる。
ご主人とこうして裸でベッドの中にいるのが不思議に思えた。わたしはご主人がますます好きになっていたのに、好きだという自分の気持ちがよくわからなかった。ただ、懐かしい場所に帰ってきて、懐かしいかたちに触れているような気がした。
わたしはずっとご主人のペニスを握り締めている。離したくなかった。手を離したとたん、ご主人がわたしから消え、わたし自身が溶けてなくなってしまいそうだった。
ベッドの脇に置かれた、いつものスーツケースが不意に目にとまる。今だったらケースの中を見せてくれそうな気がした。わたしは密かに期待をしていた。ケースの中にわたしだけのための鞭や縄が潜ませてあることを。何よりも、ご主人があのスーツケースの中から縄と鞭を取り出して、わたしを縛り、痛めつけたら、わたしはもっとご主人を好きになって離れられなくなるような気がした。
「あのスーツケースの中に入っている、亡くなった恋人の思い出って何なのですか……」
わたしはご主人に尋ねた。恋人を縛った縄と、ご主人が手にした鞭でしょう……わたしがそう言いかけたとき、ご主人は、わたしの裸の肩を静かに抱き寄せて言った。
「さあ、いったい何なのでしょうね……」
あいかわらずご主人から答えを得ることはできなかった。