……そばで。-1
背中から声をかけてきたのが彼女だと気づくなり、僕は息を飲むはおろか、まばたきさえも忘れてその場に棒立ちになった。数瞬後、はっ、と我に返り、危うく取り落としそうになった店頭のCDを空いている所へ差し入れる。
「久しぶりだな」
動揺を悟られないよう、出来る限り自然な笑顔を作りながら僕は言った。久しぶりだな。久しぶりどころの話ではなかった。数年ぶりの予期せぬ再会に、単に驚いただけなのか。急に早鐘を打ち始めた心臓を中心にして、血管という血管が全て馬鹿みたいな脈の打ち方をしている。こめかみがの辺りがザクザクと耳障りな音を立て、軽い目眩さえ感じた。
「うん。久しぶり」
焦りを隠せないでいる僕とは反対に、まるで昨日も会ったかのような懐かしさをいっさい感じさせない口調で麻衣は言った。
「歩も元気そうだね」
「元気そう、か」
随分のんきな事言ってくれるじゃないか。今の俺になるまで、どれだけ苦しんだと思ってるんだよ。お前が俺の前から姿を消してから、どれだ……。口をついて出そうになった言葉を、ぎりぎりの所で飲み込み、かわりに僕はそれとは全く違う一言を口にした。
「久しぶりに会ってCDショップで立ち話っていうのもなんだし、俺んちくるか?」
なんだってまた、あんな事を口走ってしまったのか、ようやく冷静さを取り戻した後になって考えてみても、さっぱり分からない。別れた恋人に、しかも突如として姿をくらますような、自分から捨てた男に平気で笑いかけてくるような女に、自分の家へくるかなんて口走ってしまうなんて。思考回路がおかしくなっていたとしか思えない。いや。実際に数分前の僕はどうかしていたのだろう。そうでなければ、こんな状況が出来上がるはずがない。
僕は助手席に缶コーラを片手に座っている麻衣へ、盗み見るようにしながら視線を向けた。彼女が車に乗り込んでから、ほとんど会話らしい会話をしていない。さっきからちびちびとコーラを口に運んで間をつないているみたいだ。さすがにアパートに誘われるとは思っていなかったのだろうか。そう思ってから、そうだよな、と僕は内心で苦笑した。僕らはもう恋人じゃない。かといって友達にも戻れない。だけど知らない仲でもないのだ。そんな過去の関係を持ち出してこなければ説明もつかない、あやふやな関係なのに。捨てた男に笑って声をかける女と、憎んでいた女を家へ招待しようとしている男。どちらも、そう違いはない。
「あ」
急に思い出したように、顔を上げた麻衣が言った。
「ねえ私、CD貸してたわよね。一枚」
「え、ああ」
いきなり何を言い出すとか思えば、これだ。
彼女が言い出すまですっかり忘れてしまっていた。そう言えば、借りていた気がする。何度も処分しようとは思ったのだが、結局は、今日になっても出来ずにいた。その理由は未練以外のなにものでもない。忘れようと思いつつも、どこかで彼女とのつながりを持っていたかったのだ。
「よし。じゃあ、今日は返してもらうわ。気に入ってたのよ。あれ」
並びのいい歯を見せながら、ニッと麻衣は笑った。あれだけ長かった髪はショートに変わり、化粧もあの頃と比べて断然うまくなった。そのせいかとても大人っぽく見える。けれど着ているシャツはやっぱり白で、笑顔もしぐさも変わらない。そういった根本的な部分は憎たらしくなるくらいに、僕の知っている麻衣で、そんな彼女を目にするたびに言いようのない切なさが胸を痛くさせた。
「そういえばさ、歩ってサボテン飼ってたよね」
そう言えば昔からこいつはそうだった。唐突で。脈絡なくて。会話をする方の身にもなってもらいたい。
「飼ってた、というよりは育てていただろ」
僕が苦笑すると、麻衣が頬を膨らましてそっぽを向いた。