……そばで。-2
「日本語勉強しろよ」
「うっさい」
それ以上は何も言わず、小さな頭から前へ目を戻す。
「名前、なんだっけ」
え、と再び彼女へ首を曲げる。あゆむだよ。歩。そう答えかけたところで、
「サボテンの」
と麻衣が付け足した。
ああ、と気の抜けたサイダーみたいな返事を返す。
「三太夫」
窓の外を見ながら、麻衣がふきだして言った。
「そうだそうだ。そんな名前だったよねえ。変な名前」
「お前がつけたんだろ」
げんなりしながら僕は言った。
「あれ。どうした?まだ元気?大きくなった?」
「……死んだよ。お前が出て行ってすぐ」
しまった、と思った時にはすでに遅かった。気まずい沈黙が降りてきて、車内の温度をぐっと下げた気がした。さりげなくラジオのスイッチを入れる。FMから、聞き
覚えのある音楽が流れ出した。
交差点の信号が青に変わると同時にアクセルを踏み、ハンドルを左に切る。日曜日のせいか、車のとおりがやけに少なく感じられる。
「あのさ」
不意をつくように、麻衣は消え入りそうな声で言った。
見ると、ついさっきまでの明るさが嘘のように、横顔が強張っている。
「なんだよ」
つられて小声になりながら、僕は背中の辺りに妙な汗が浮き出るのを感じた。言い
かけながら口をつぐむことを繰り返し、何度目かでようやく彼女は話を切り出した。
「怒ってる、よね。私が歩の前からいなくなっちゃったこと」
やっぱりきたか。予想通りの質問。ハンドルを握る手に力が入った。
「当たり前だろ」
つとめて静かな口調で僕は答えた。怒っているどころか、恨んでさえいた。麻衣がいなくなってからの最初の数ヶ月は本当につらかったのだ。何をするにも、どこへ行くにも、麻衣の姿が目に浮かび、その度に体の内側から爪を当てられているような痛みに苦しんだ。それならきっぱり忘れて新しい恋に踏み切ればいいものを、それさえも出来ずにいた。明日帰ってくるかもしれない。明後日にはひょっこり戻ってくるかもしれない。そう思って、思いつづけていいかげん心が疲れきってしまった頃。ようやく傷口も癒え始めた頃に、こうして姿をあらわすなんて。
「三年だぞ」
ブレーキを踏んで減速し、右折。
「お前がいなくなって三年だ」
「ごめんね」
うつむきながら、麻衣はぽつりと言った。
「理由はなんだよ。今さら訊いても何も変わらないだろうけど。でもそれくらい話してくれたっていいだろ。何故、俺の前から消えたんだよ」
再び沈黙。それをやぶったのは今度は僕の方だった。
「新しい恋人でも出来たか」
「違う」
弾かれたように顔を上げて、麻衣は子供みたいにかぶりをぶんぶんふった。
「じゃあ、飽きたか。嫌いに……」
「違うよ!」
僕が言葉を切ったのは、彼女にぴしゃりと否定されたからではなく、その顔が、今にも泣き出してしまいそうな表情をしていたからであった。見開かれたような一重の大きな瞳に、涙の皮膜が浮かんでいる。もう一度まばたきすれば、きっとこぼれ落ちる。そう思うのとほとんど同時に麻衣の瞳から涙が粒になってこぼれた。いたたまれない気持ちになった僕は、彼女から目を反らして言った。
「もう、いいよ」
別に、過去のことだ。泣かせてまで聞き出したいなんて、昔ならともかく今はもう思わない。赤信号で止まり、青に変わるとゆっくり車を出した。後少しで僕のアパートにつく。けれど、これ以上の会話は無理だ。彼女にCDを返したら、元の場所まで送り返してやろう。それで、今度こそ本当に何もかもが終わるのだ。きっと。
「あの日、私が訊いたこと覚えてる?」
ようやく僕のアパートに着いた所で、麻衣がぼそぼそと言った。