日常と非日常-3
ランチから戻ると文香さんはそのままトイレへと向かい、私はオフィスへと足を向けた。
その時お尻からぞくりとした悪寒が走ったので背筋がピンと伸びてしまう。その悪寒を感じさせた正体は樋口だった。この男は背後からこっそりと近寄り私のお尻を撫で回したのだ。
「やっぱ、いい尻してるわサクちゃん」
平然とセクハラをする樋口を睨みつけて、平手の一発でもくらわせようと手を上げた。
瞬間、樋口に手を掴まれて体ごと壁に押し付けられた。掴まれた右手は頭の上で壁に押し当てられ、空いた左手も牽制するように手首を掴まれている。
樋口は顔を寄せてきて小さな声で囁いた。
「気取るなよサクちゃん。最近ご無沙汰だろ?一回くらいさ…いいじゃん」
その正体を見せる樋口に体が震えた。暴力が怖いわけではない。時刻はお昼過ぎ、誰が通るかも分からない通路で平気で私を押さえ付けて壁に押し当てて、我がモノにしようと考えられる、そういう常軌を逸した行動に私は恐怖を覚えた。
「人…呼びますよ?」
「声震えてる。可愛いんだ、サクちゃん」
「最低ですね、こうやって思い通りにならない女には力ずくでやるんですか?」
きっと、他の女子達からは羨ましがられるシチュエーションなのだろう。イケメンに壁ドン。確かに樋口は顔が整っているけど、私は別にそこを求めている訳でない。だからこの状況が嬉しいとか思ってもいなくて…。
「誰か来る前にキスだけでもさせてよ」
「話し…聞いてます?」
「その唇が俺を誘ってるもんでね」
「誰がっ」
と、樋口の顔がより近付いてきた。それがやけにスローモーションのように見えて、私は顔を背けて目を瞑る。
「いーけないんだ」
少し離れた所から声が掛かった。声の主は………遠藤梢枝(えんどうこずえ)さん。私と同じチームの女性で、仕事もバリバリ出来てチーム内のエースでもある。年は確か文香さんと同じくらい。
「こ、梢枝さん!」
掴まれた手は解放されて私は梢枝さんに駆け寄った。樋口はバツが悪そうに後頭部の辺りを掻いている。
私は梢枝さんの背後に隠れるようにして見を守る。その梢枝さんは両手を腰に当てて威風堂々たる姿を見せつけた。
「こぉら樋口、あんたTPOも弁えないで何やらかしてくれてんの?」
「ちゃいますよ、遠藤さん。そこのサクちゃんがキスして欲しいって言うからさ」
「う、嘘です!」
私は強く否定するけど、そんな事は分かりきってると言うように梢枝さんは樋口を睨み続けている。
「ロマンの欠片も無いねあんた。そんなやり方してたらその内女の子で痛い目に合うよ?」
「お生憎さまで、美味しい思いしかしてないんですわ。俺モテるんで」
「無理やりキスしようとしておいてモテるなんてよく言えるわね」
「だからあれはサクちゃんから誘ってきたんですよ」
「そんな言い訳通用しないよ。リカちゃんはそんな娘じゃない」
「そんな娘ですって」
「もういいから、早くオフィス戻りな。そうじゃなきゃ私が相手するから」
「何の相手だよ、おーこわっ」と樋口は言いながら背を向けて去っていった。私は漸く緊張が解けて肩を落とす。
「平気?」
「ちょっと、流石に怖かったです」
「もう大丈夫だから」
私の背中を二度ぽんぽんと叩く梢枝さん。
今まではあそこまで露骨にアプローチされた事が無かったから、完全に意表を突かれた形になった。樋口は何を思って私にあそこまでしてきたんだろう…。
「何なんだろね、樋口。前からあんなだっけ?」
「…初めてです。こんなこと」
「そうだよねぇ…好きな相手にでもフラれたのかな?」
そんな事私に分かるはずもない。けど、もしそうだとしても、八つ当たりであんな風にするのは筋が違うと思う。
「さ、じゃあ後半戦。残りの仕事片付けちゃおっか。それとも…今日は早退しとく?」
「いえ、平気です」
何とか気持ちを持ち直し、私は梢枝さんと一緒にオフィスへと向かった。