ある復員兵の夏-8
「っ……ぅ……」
正一の口から、唸りとも呻きともつかない獣のような声が微かにこぼれる。
頭の奥をゆわんゆわんとかき回され、世界の全てがぐんにゃりと歪んで見えるような気分に襲われながら、正一は地面にぺたんとへたり込んだ。
(そ、そんな……そんな……)
正一は戦場で、多くの死を見てきた。
あまりのむごたらしさに、思わず目を背けてしまうことも数知れずあった。
残酷なものからは、つい視線を外してしまう。
おおよそ人として正気を失っていたはずの戦場でさえ、正一のそんな感覚が麻痺することは最後までなかった。
だが、今――。
正一は、目を逸らすことができなかった。
妻が、他の男に陵辱されている。
このあまりに酷く、あまりに惨めな光景が眼前に広がっていても、正一は視神経のどこかが壊れてしまったかのように、交接する二人の姿を瞼の奥に捉え続けていた。
(お、俺は……俺、は……)
「父ちゃーん!」
「!」
聞き覚えのある声が、ぐらつく正一の意識を一気に現実へと引き戻した。
「ねー、父ちゃん。母ちゃんは?」
「あ? まだどっかで仕事してんじゃねえか? まあ、待ってりゃそのうち戻るだろ。ほら、さっさと家に入れ」
「うん、分かった!」
男と会話を交わしているのは、間違いなく隆男だった。
姿こそ見えなかったが、声の調子から察するに元気でやっているのだろう。幼さが消えて、以前よりも少し大人っぽい喋り方になった気がする。
(た、隆男も……)
息子はあの男のことを「父ちゃん」と呼んだ。
そして今ここで聞いていた限り、二人のやり取りはすっかり親子のそれであった。
「い、行かなきゃ」
隆男の声を聞きつけた圭子が、すぐさま立ち上がって服についた藁をはたき落とした。
(あ……)
そして、正一が躊躇して身をすくめているうちにさっさと身づくろいを済ませると、優しい母親の佇まいに戻って平然と納屋の外へと出ていってしまう。
「……」
いまだ昼の熱気を残すむわんと湿った風が、正一のこけた頬を生温く這い回った。
「圭子……隆男……」
正一は鞄の中に手を伸ばすと、小さなパイナップルを思わせる鉄の塊を取り出した。
それは、戦地から持ち帰った手榴弾。
天皇陛下から賜りしもの、命よりも大事にせよ、などと言われてきたが、もう今となってはこんなもの、芋一個にも劣るただのガラクタでしかない。
「……いや……」
正一が、ぽつりと呟く。
まだ、使い道がないことはなかった。
「だが……」
それは、禁断とも言うべき手段。どうしようもなくなった時にのみ用いることが許される、最後の最後の、一手だった。
「……」
正一は納屋の中と、隣接する家屋とを交互に見比べた。
「ぅ……」
先刻の淫猥な光景がまざまざと脳裏に蘇って、胃液を全部吐き出しそうになる。
「っ……」
もう一度手元の手榴弾に目線を戻すと、無言のまま、睨みつけるようにじっと見つめた。
「くっ……」
体育座りで、膝の上に顔を伏せる。
肉体の疲労か、精神的な衝撃か、あるいはその両方か。とにかく、全身のあちこちが焼けるようにひりひりと痛んだ。
「うあああああああああーーーーっ!」
正一は不意に、野獣のような咆哮をあげた。
それから、奥歯をぐっと噛みしめたかと思うと、決然とした態度で伏せていた顔を上げる。
「うっ……うぅ……ううぅっ……!」
とめどない涙でにじむ正一の目に、橙色の夕陽がじんわりと染み込んできた。