乱れ柳-1
淫乱を我が身の内に飼っている
これが柳川澪の、今の心境だった。
彼女は後悔していたが衝動を抑えられずにいた。行きがかり上やむをえないとはいえ、夫以外の男性に抱かれてしまい、あろうことか、その男を忘れられなくなってしまったのだ。頭ではもう会うのはよそうとするのだが、身体がどうしてもその男を求めてしまうのだ。
その男の名は黒井博文。大学教授というエリート職にはついているが、人間性は最悪だ。しかし、男としての性能、雄としての能力は度肝を抜かれるほどで、柳川澪の男遍歴(結婚するまで夫以外に三人ほど)と照らし合わせも桁違いの性豪だった……。
柳川澪と黒井教授が知り合うきっかけは仕事だった。澪は大学内の出版局に勤務しており、黒井の著書を刊行する際に担当者となったのだ。原稿のチェックから印刷業者との折衝、校正刷りが上がってきてからの校正・校閲作業など、澪は真面目に取り組んだ。しかし、黒井から返ってくる校正刷りは朱筆修正の書き込みで真っ赤だった。第一校正、第二校正と進むにつれ、普通、著者の訂正は減ってゆくものだが、黒井の場合は第三校正に至ってもなお、文章の差し替えや追加が多かった。自分の著作への熱の入れかたが半端でないのは分かるが、これほどしつこく直してくる執筆者は初めてだった。非常に困ったが、黒井の印象的な鋭いまなざしとクールな雰囲気が澪好みだったので、彼女はあまり文句を言うことはなかった。
執拗な訂正は印刷業者に多大な迷惑をかけ、文字をチェックする澪の仕事量も増えたが、それでも、ようやく著者校正終了へとこぎつけた。数ページぶんの文字訂正が残ってはいたが、あとは出版局の責任でチェックすることを黒井に(渋々ながら)了承してもらい、本作りのステップは次へと進んだ。しかし、校正作業の最後で澪はミスを犯してしまった。著者略歴の中のひと文字を誤った漢字のまま校了にしてしまったのだ。黒井の手書きの修正文字が判読しづらく、一度は黒井に確認しようと思った澪だったが、忙しさにかまけ、自分の判断で処理してしまったのだ。
著書が刷り上がり、黒井のもとへと納品されて一日後、澪は彼からクレームの電話をもらった。
「たったひと文字ですが間違いは間違い。最後まで私が校正チェックをしていれば防げたものを……」電話の声には静かな怒りが込められていた。受話器を握る澪の手が強張る。普段から愛想はよくない黒井だが今は額に細い青筋が立っている感じである。「だめですね。全部刷り直してください」
丁寧な言い方ではあるものの動かしがたい雰囲気があり、澪は凍り付いた。平謝りし、訂正シールを貼るとか正誤表を作るとかで、なんとか事を収められないかと交渉したが、黒井は承諾しなかった。ここで、出版局のトップに相談するのが普通なのだが、澪はそうしなかった。彼女は専任職員ではなく嘱託なので、今回のミスにより契約を早期に打ち切られる材料をこしらえてしまうことが怖かったのだ。
「電話ではあれですので、これから伺います」
澪は受話器を置くと即座に黒井の研究室へと足を運んだ。大学出版局の建物と黒井の研究室のある人文学部棟とはかなり距離があったが、彼女はなかば駆け足だった。
研究室に近づくと、女子の学生が退室したところだった。すれ違いざまにチラリと見ただけだが、ナイスバディで派手な印象の学生だった。ゼミ生に違いなかったが、大学にいるよりは、サーキットでレースクイーンでもしていそうな雰囲気。いいことでもあったのか上機嫌な表情だったが、今の澪はそれとは正反対の顔をしているはずだった。
研究室のドアをノックし、黒井の「はい!」という返事にぶっきらぼうさを感じながら入室する。ゴクリと唾を飲み込んでから、澪はあらためて詫びの言葉を連ねた……。
粘り強い直接交渉の末、なんとか本の作り直しだけは回避しそうになったが、条件が付いてしまった。それは大学教授の口から発せられたとは到底思えない破廉恥なものだった。
「柳川さん。一度、ベッドでの相手を務めてください。そうしてくれれば、今回のあなたのミスは水に流しましょう」
とんでもない申し出だった。ベッドでの相手とは……。それだけは勘弁してくれと懇願したが、黒井は冷たい表情のままで取り付く島もなかった。
澪は顔を伏せて考えを巡らせた。数十万円もかかる書籍作り直しは出版局にとって痛い話だが、その損害額は澪が直接負担するわけではない。局長から厳重注意を受ける程度で済むだろう。雇用契約に響くが、ここはもう、しょうがない……。彼女の心は本の作り直しへと大きく傾いた。その時、黒井が意外なことを口にした。
「大学出版局の今の局長ですが、来春には他県の大学へ転勤するのです。それで、次の局長になるのが、この私という内示をもらっているのですよ」
澪の眉間に皺が少し寄った。
「局長には人事権も少しありまして、柳川さん、あなたの態度次第では、来期の雇用は打ち切り……ということにもなりかねません」
彼女の眉間の皺が深くなった。今、世間は未曾有の不景気で就職難。夫の稼ぎはあるが昨年家を新築したばかり。返済のかさむ今、澪はこの職を手放すわけにはいかなかった。
『仕事のミスを材料にしてセックス相手になることを強要するなんてセクハラもいいところ。不倫をするなんて夫への完全な裏切り行為……。でも…………』
黒井はこちらに背を向けて窓ガラス越しに外を眺めていた。澪は今一度、他に謝罪する方法はないかと尋ねてみたが、黒井の無言の背中は頑(かたく)なだった。
「わ、わかりました……」
熟慮の末、ひきつった表情で澪は黒井の卑猥な申し出を受け入れてしまった。
しかし、彼女の心の奥底に「女の色気で事が済むのなら……」という打算と、「相手が好みのタイプの黒井であるのなら……」という嗜好が潜んでいることを、彼女自身、気づいてはいなかった。